「先生‥‥」
もう眠っているものと思っていた骸骨が呼びかけてきた。彼は新聞から目を離す。
「先生、春ニナッタセイカ‥‥女性達ガ綺麗ですねえ」
骸骨はさも感慨深そうに言った。まるで謡うような口吻だった。
渋谷医師は思わず笑みを浮かべた。一体どこで目にしたものやら、こいつもなかなか隅に置けないなと思った。そして何か言おうとしたのだが、もう気配がなかった。そうなると最早先程までの骸骨ではなかった。
そこにあるのは冷たい感触の古びた骨格標本に過ぎなかったのである。そして一人になった渋谷医師は新聞を畳み、やがて一日の仕事が始まった。
四月になった。骸骨は毎夜仕事に出かけていた。初めは診察室の標本を気にしていた看護師たちも今では何も口にしなくなった。結局誰一人として渋谷医師に尋ねはしなかったし、彼も説明はしなかった。
ただ夜間になると診察室に鍵がかけられるようになったことで、少し不平が出ただけだった。急用が出来ても一々自宅に連絡して開けてもらわなければならないからだった。
流石にその点は説明を求められたのだが、新しく採用した注射薬が劇薬の指定を受けており、その用心のためなのだと言い訳をした。
確かにそのような薬品は診察室の棚に納まっていた。だがそれで伊藤医師を納得させることは出来なかったのである。
伊藤医師は隣に急拵えされた十畳程の診察室を使っていた。今までは当直日以外は六時に帰宅していたのだが、何のかのと理由をつけて遅くまで残るようになった。
設備が不充分だからと称しては渋谷医師の診察室へやって来て八時を過ぎるまで、時には九時を回るまで残って調べものをするようになったのだ。
「こいつは色々と役に立ちそうだからな‥‥諦めないぜ」
薄笑いを浮かべて呟くと、彼は虚空を睨みつけた。そして渋谷医師の帰宅を待って骸骨の頭をこつこつと叩いたり、腕をぎりぎりと捻じ曲げたりしていたのである。
だが骸骨の方では全く動かなかった。眠っていたのかも知れないし、惚けていたのかも知れない。そうして二人の沈黙の格闘が始まって半月になろうとしていた。伊藤医師の執拗さも只事ではなかったが、骸骨の神経の太さも見上げたものだった。
次回更新は4月16日(木)、8時の予定です。
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