六世紀、男大迹王は、半島を攻め新羅の王となる。息子を百済皇太子にし、和国へ戻りヤマト入りして継体天皇になった。

継体天皇は九州王朝を討ち(磐井の乱)、ヤマト朝廷で東西を統一した。エフタル族が脅威となり、高句麗が反転し敵対。安蔵王が和国へ進撃し継体天皇は倒された。

高句麗の安蔵王は安閑天皇になる。安閑天皇は笠原氏を武蔵国造に任じ支配は東国まで及んでいたが、エフタル族に在位二年で反撃されて、エフタル族の宣化天皇が即位する。

百済王となっていたエフタル族の聖王を、百済の大臣だった蘇我氏が奉戴し和国へ乗り込む。聖王は宣化天皇を退けて欽明天皇として即位し、百済・和国二カ国の王となった。

退けられた宣化天皇は新羅に渡り、新羅の真興王になる。

和国・新羅・百済の王が、全てエフタル族の王になってしまった支配政権が暫く続く。

高句麗で内紛が起き王子扶余昌が和国へ亡命。蘇我氏が擁護し欽明天皇の養子にする。

扶余昌王子は、和国軍を率いて高句麗へ出兵し勝利した。欽明天皇が、新羅の真興王に倒されると扶余昌王子が跡を継ぎ、和国の敏達天皇となり、百済の威徳王となり、引き続き両国の王位を継承して蘇我氏も権力を握り続けた。

六世紀末、北アジアの大国「突厥」が隋の計略により東西に分裂させられ、和国へ東突厥族が亡命してくる。物部氏に婿入りし物部守屋と名乗り、蘇我氏と激しく対立した。

敏達天皇はこの覇権争いから逃れ百済へ渡り、蘇我馬子は蘇我氏の血を引く用明天皇を和王に擁立した。

物部氏は穴穂部王子を立て対抗し戦乱が勃発。和国の天下分け目の決戦は、蘇我氏側が勝利した。