第1章 青年海外協力隊から医師へ

医師を志したきっかけ

三か月間の青年海外協力隊国内訓練の後、昭和54年度隊員としてマニラに位置するフィリピン工科大学へ派遣された。未知の世界への第一歩を踏み出したのだった。

当時の私は、この決断が後に医師という新たな使命との出会いをもたらすことなど、想像すらしていなかった。

私の活動目標は、現地の教師たちへの数学教育に携わったり、日本の数学教育方法や教科書内容をフィリピンの先生方に紹介すること。

そしてフィリピン独自の文化に沿った数学教科書作成に貢献することだった。

日本には母国語の日本語で書かれた数学や理科の教科書があるが、当時フィリピンの数学や理科の教科書は米国本からのコピーで、フィリピン語ではなく英語で書かれたものだった。

英語が苦手な子どもたちは理科系の勉強をする機会さえ与えられない。フィリピン国の言葉で書かれた教科書で、フィリピンの文化に根ざした数学や理系の教育を行いたいという大切な目標がフィリピン政府にはあった。

当時の学生たちは鉛筆を3cmくらいに短くなっても大切に使っていた。日本の子どものようにノートを一冊ずつ買うことができず、校門前の小さな路上雑貨屋サリサリストアで藁半紙(わらばん紙)を一枚ずつ買っていた。

短くなった鉛筆で、小さなフィリピンの文字で、そのざら紙に隙間のないほどびっしりと埋めていた。

フィリピンにはフィリピンの子どもたちに適した教材や教育方法が必要だと心から思った。

フィリピンに派遣されて一年後、大学の夏休みに同僚教師や学生と共にフィリピンの僻地医療ボランティア活動に参加する機会を得た。

フィリピン人医師や医療スタッフとともに山間部に住む少数民族の集落を訪れ、疾病予防活動や診療を行うプロジェクトだった。

リーダーの男性医師は40代、笑顔で優しそうだがきりりとしていた。その医師らと共に軍用トラックの荷台に揺られ、橋のない川をトラックで何回も横断し現地へ向かった。

当時は治安が非常に悪かったため、軍用トラック荷台には機関銃を持ったフィリピン陸軍兵士3名が同乗し安全を守ってくれていた。

活動場所に宿泊所などはもちろんない。地面にムシロを敷いて、仮のテントで雑魚寝するという生活だった。村人や同行医療スタッフたちと朝から晩まで数日間を一緒に過ごした。

コミュニケーションは、英語からタガログ語へ、そしてタガログ語から現地語へと通訳してもらいながらつないでいった。

 

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