【前回記事を読む】夫と女の密会を見た私は、雨の中を飛び出した。ベンチでうずくまっていると、ずぶ濡れの夫が現れて「全部説明する」と…
過去からの影
沙織が去って、旅館に平穏な日々が戻った。
8月。夏休みの行楽客で旅館は久しぶりに賑わった。よし子は女将として客の応対に忙しく、雅彦は厨房で汗を流した。節子も「こんなに忙しいのは何年ぶりかしら」と嬉しそうだった。
美咲も夏休みを利用して旅館に遊びに来ていた。大学生活にも慣れたようで、以前より大人びた顔つきになっている。雅彦のことを「雅彦さん」と呼ぶようになり、2人で将棋を指す時間も増えた。
すべてが順調だった。だからこそ、その日の出来事はまったく予想していなかった。
9月の初め。旅館に1人の男性客がチェックインした。
「こちらにお名前をお願いいたします」
よし子が帳場で対応すると、男は万年筆でゆっくりと名前を書いた。
小野寺修一。
見覚えのある名前だった。思い出すのに数秒かかった。正志の親友だった人だ。
「あの――小野寺さん?」
男は顔を上げた。50歳くらい。痩せ型で、銀縁の眼鏡をかけている。穏やかそうだが、どこか陰のある顔立ち。
「やっぱり、よし子さんでしたか。お久しぶりです」
「まあ、びっくりしました。こんなところでお会いするなんて」
「実は、美咲ちゃんから聞いたんです。お母さんが旅館で働いているって。1度行ってみたいなと思って」
美咲から。よし子は少し意外に思った。美咲と小野寺がそんなに親しかっただろうか。
「正志さんの一周忌の時に美咲ちゃんと連絡先を交換しまして。たまにLINEで話すんですよ。正志さんの思い出話なんかを」
「そうだったんですか。知りませんでした」
「……もう、あれから3年半になるんですね」
「ええ……。長かったような、あっという間だったような」
よし子はふと、この3年半のことを思った。正志を亡くしてからは、目の前のことをこなすだけで精いっぱいだった。悲しむ暇もないまま気がつけば何も持っていなくて、自分が空っぽになっていることにすら気づかなかった。
だけど今は違う。正志を思い出すたびに胸を刺していた痛みは、いつの間にか、静かな懐かしさに変わっていた。
(正志のこと、ちゃんと話せるようになっている。それでいいんだろうか。それでいいんだよね)
黙り込んだよし子の横顔を見て、小野寺が少し慌てたように言った。
「……すみません、突然押しかけてしまって」