「いいえ。お越しいただいて嬉しいです」
よし子はすっかり板についた女将の顔で微笑んだ。小野寺も安心したように目を細めた。
小野寺は1泊の予定だった。夕食の席では雅彦の料理を「うまいですね」と静かに褒め、食後は部屋に戻って早々に床についたようだった。
翌朝。チェックアウトの手続きを終えた小野寺が、帳場を離れかけて足を止めた。
「よし子さん、少しお時間いいですか」
旅館の庭のベンチに並んで座った。9月の空は高く、虫の声が聞こえる。
「実は、お伝えしたいことがあって来たんです」
小野寺は眼鏡を外し、ハンカチで拭いた。手が少し震えている。
「正志が亡くなってから、ずっと言おうかどうか迷っていました。でも、よし子さんが再婚されたと聞いて――今のうちに言わないと、一生後悔すると思って」
「……」
「正志が生きていた頃から――いや、正志と結婚する前から、僕はあなたのことが好きでした」
時間が止まった気がした。
「正志に紹介されたのが最初でしたね。花見の席で。あの時からずっと」
「小野寺さん――」
「正志は親友でした。だから何も言わなかった。あなたが正志と幸せそうにしているのを見て、それでいいと思った。でも正志が亡くなって、あなたが1人になって――何度、電話しようと思ったか分かりません」
小野寺の声が震えていた。目が潤んでいる。
よし子は言葉が見つからなかった。正志の友人が、自分にそんな感情を持っていたなんて。20年以上も。
(20年。20年間、ずっと――)