【前回記事を読む】23時過ぎに夫が帰宅。酒の匂いがした…私は知ってる。夫があの女性と「大切な人と、隠れ家で素敵なひととき♪」を過ごしていたと…
壊れかけた信頼
沙織の滞在が3週間を超えた頃、それは起こった。
夜の10時。よし子は雅彦に届け物をしようと、旅館の帳場に向かった。雅彦は経理の仕事で遅くなると言っていた。
帳場の前まで来て、足が止まった。
中から声が聞こえる。雅彦の声と、もう1人——沙織の声だった。
「雅彦さん、お願い。私の話を聞いて」
「沙織さん、もう遅いから――」
「5分だけ。5分だけでいいの」
よし子は息を殺して立ち尽くした。聞いてはいけない。でも足が動かなかった。
(聞きたくない。でも動けない。足が動かない)
中でしばらく話し声が続いた。沙織の声が次第に熱を帯びていくのが分かった。10分ほど経っただろうか。帳場のドアが開いた。
出てきたのは沙織だった。目が赤い。泣いていたのだ。
よし子と目が合った。沙織は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの微笑みを浮かべた。
「あら、奥様。こんな時間にどうされたんですか」
「……それはこちらの台詞です。こんな遅くに夫と2人で何を」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「お仕事の相談をしていただけですよ。遅くまですみません」
沙織は涼しい顔で通り過ぎた。すれ違いざまに甘い香水が匂った。帳場に入ると、雅彦が机の前に座っていた。表情が硬い。