「今の、何ですか」
「……仕事の話だ。沙織さんの会社の件で」
「嘘でしょう。仕事の話で泣きますか? あの人、目が赤かった」
雅彦は口ごもった。
「少し感情的になっただけだ。仕事のことで悩んでいて――」
「じゃあなぜ帳場で2人きりなんですか。なぜロビーじゃなく、閉め切った部屋で?」
「よし子さん、落ち着いて――」
「落ち着けません!」
声が震えた。涙が溢れそうだった。でも泣くものかと思った。
「節子さんから聞きました。あの人、前の奥さんが生きていた頃からあなたのことが好きだったって。知ってたんでしょう?」
雅彦の顔色が変わった。
「……知っていた。でも、僕はずっと断ってきた。妻が生きていた時も、妻が亡くなった後も」
「でも今は2人きりで夜遅くまで――」
「何もないと言っているだろう!」
雅彦が声を荒げた。この人がこんなに大きな声を出すのを、初めて聞いた。よし子は怯んだ。
沈黙が落ちた。雅彦は自分の声に驚いた様子で、額を手で押さえた。
「すまない。声を荒げてしまって」
よし子は唇を噛んだ。悔しさと悲しさと不安が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
「私、あなたのことを信じたい。信じたいんです。でも――」
声が途切れた。これ以上話したら、みっともなく泣き喚いてしまう。
「少し、1人にさせてください」
よし子は踵を返した。雅彦が「よし子さん」と呼ぶ声を背中で聞きながら、廊下を歩いた。歩いているつもりが、いつの間にか走り出していた。