(信長様の家臣である)御奉公衆は袴(はかま)に片衣(かたぎぬ)で、股立(ももだち)を取り、2、3人が堂の中へ入ってきました。

そこで首を又1つ取りました。その者は、1人奥の間より出てきて、帯もしていませんでした。刀を抜いて浅黄色の帷子(かたびら)を着て出てきました。その時に、かなりの人数の(我らの)味方が入ってきました。それを見て敵は崩れました。我らは吊ってある蚊帳の陰に入り、この者が出てきて通り過ぎようとした時に後ろから切りました。

その時の首と(先に寺の門前で取った首)で2つ取りました。褒美(ほうび)として槍をいただきました。

野々口西太郎坊の配下にいた時のことです」

これはおかしい。『信長公記』には、信長は最初は弓で戦い、弦が切れると長槍を取って戦ったと書かれてあるが、『本城惣右衛門覚書』にはそのようなことは一切書かれていない。また、天下人に等しい信長が宿泊している寺の門が開いており、警護がおらず、広間にも蚊帳(かや)が吊ってあるだけで、誰もいない。そんなことがあるだろうか。

これらは本城惣右衛門が本能寺に遅れて入ったために『信長公記』に書かれているシーンを見ていないとか、信長の大勢の家臣とも戦わなかったというわけではない。

惣右衛門は「自分より先に本能寺に入ったと言う者がいたら、それは嘘だ」と言い切っている。つまり、惣右衛門が最初に本能寺に入ったということだ。それにも拘かかわらず、門にも広間にも誰もおらず、信長の奮闘シーンも見ないなどということがあるだろうか。

その後も奥から2、3人出て来たとあるが、信長の供回りは少なくとも20~30人はおり、また、女衆も1人や2人ではないはず。それらの者はどこに行ったのか。

『信長公記』には信長が敗れる前に「女どもは苦しからず。逃げよ」と言われて女たちは途中で逃げたとの記載があり、逃げるまではそこにいて、信長の戦いを見ているはずであり、かつ、太田牛一は生き残った者の証言などを聞いて『信長公記』を書いたといわれていることから、この証言には信ぴょう性がある。

他方、本城惣右衛門も嘘をつくならもっと自身が活躍したように言うだろう。従って、こちらも信ぴょう性がある。

どちらも嘘ではないとしたら、これらの間の食い違いは何なのか。

本城惣右衛門の記載はあたかも誰かが本能寺を襲撃して信長の家臣を殺害して遺体を信長ともども持ち去り、信長の家臣はこの奥から出て来た3人だけ生き残り、その後本城惣右衛門やその他の明智家の家臣らが本能寺を訪れた様相ではないだろうか。

 

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