【前回の記事を読む】『信長と信忠は生きている』――親子の生死を知るのは、連れ去った黒幕だけのはずだが……
第一部
5 その他の不合理
2 明智家家臣と『信長公記』であまりに異なる本能寺襲撃時の様子
光秀の家臣に本城惣右衛門(そうえもん)という者がおり、この者が晩年手記し、親族に書き残した物が『本城惣右衛門覚書』と呼ばれて残っているが、その中で次のように書かれている
「明智が謀反をして、信長様に切腹させたとき、本能寺に我らより一番乗りに侵入したというものがいたらそれは皆嘘です。その理由は、信長様に腹を切らせるとは夢にも知らなかったからです。
その時は、太閤様が、備中に毛利輝元殿を討ちに侵攻していました。その援軍に明智光秀が行こうとしていました。
ところが山崎の方に行くと思いましたのに、そうではなくて京都へ命じられました。我らはその時は家康様が御上洛しておられるので、家康様だとばかりに思っていました。(目的地の)本能寺というところも知りませんでした。
軍列の中から乗馬した二人がおいでになった。誰かと思えば、斎藤内蔵助(利三)殿の御子息と小姓でした。本能寺の方に行く間、我らはその後につき、片原町へ入っていきました。
そして2人は北の方に行かれた。我らはみな堀際へ東向きに行きました。
本道へ出ました。その橋の際に人1人がいたので、そのまま我らはその首を取りました。
そこより(本能寺の)内へ入りましたが、門は開いていて鼠ほどのものもいませんでした。先ほどの首を持って内へ入りました。
おそらく北の方から入った弥平次(明智秀満)殿と母衣(ほろ)衆の2人が、「首はうち捨てろ」とおっしゃるので従い、堂の下へ投げ入れ、(堂の)正面から入りましたが、広間にも1人も人がいませんでした。蚊帳が吊ってあるばかりで人がいません。
庫裏(くり)の方より、下げ髪の、白い着物を着た女1人を我らは捕らえましたが侍は1人もおりません。(女は)「上様は白い着物をお召しになっています」と申しましたが、それが信長様を指すものだとは存じませんでした。その女は、斎藤内蔵助(利三)殿に渡しました。