失くしたものの先に
洗濯物を取り込みながら、栗原よし子はため息をついた。
3月の風はまだ冷たい。ベランダから見える団地の桜は、まだ固い蕾のままだ。3年前、夫の正志が膵臓がんで逝ったあの春も、こんな風が吹いていた気がする。
あれから季節は3度巡り、よし子は48歳になった。白髪が増えた。目尻の皺も深くなった。鏡を見るたびに、自分が老けていくのが分かる。それでも構わなかった。見てくれを気にする相手など、もういないのだから。
テーブルの上には、パート先のスーパーから届いた閉店のお知らせが置いてある。2週間後には職を失う。15年間、惣菜コーナーで揚げ物を作り続けてきた。コロッケ、メンチカツ、アジフライ。指先に残る火傷の痕が、その歳月を物語っている。
(また初めからやり直しだ)
洗濯ばさみを外す指が止まった。初めからって、どこから? 正志が死んだあの日から? それとも、最初からずっと続いている気がする。何も変わらないまま、ただ歳を取っていく人生。
高校3年生の娘の美咲には、まだ言えていなかった。大学進学を控えた娘に、これ以上の不安を背負わせたくない。
翌朝、よし子はハローワークに向かった。48歳。特別な資格なし。職歴はスーパーのパートのみ。窓口の若い職員は申し訳なさそうな顔をしながら、いくつかの求人票を並べた。
清掃員、月給14万。工場の検品、月給15万。介護補助、月給16万——。
どれも今までのパートとさほど変わらない。家賃を払い、光熱費を払い、食費を切り詰めても、美咲の学費には到底届かない額ばかりだった。
肩を落として帰ろうとした時、掲示板の端に貼られた1枚の紙が目に入った。少し黄ばんでいる。長い間、誰にも手に取られなかったのだろう。
『温泉旅館「藤乃屋」住み込み仲居募集。年齢不問。経験不問。食事・寝室完備。月給32万円』
月給32万円。今のパートの倍近い。しかも住み込みで食事付きなら、自分の生活費はほとんどかからない。稼ぎのほぼ全額を美咲の団地の家賃と学費に回せる計算だった。
ただし——住み込み。場所は隣県の山間部。美咲と離れて暮らすことになる。