【前回記事を読む】“ある条件”さえのめば、月給32万円のハロワ求人…娘に見せると震える声で「月に1度は必ず帰ってこれるんだよね?」と…
山あいの灯
バスは山道をくねくねと登っていった。窓の外には杉の木が鬱蒼と茂り、時折渓流のきらめきが見える。乗客はよし子の他に地元のお年寄りが2人だけ。終点に近づくにつれ、よし子1人になった。
(本当に来てしまった)
スマートフォンの電波が1本になった。美咲に「着いたらLINEするね」と約束したのに、送れるだろうか。窓の外の杉林を見ながら、よし子はぎゅっと膝の上のバッグを抱えた。今さら怖気づいても仕方ない。もう来てしまったのだから。
終点のバス停で降りると、硫黄の匂いがした。小さな温泉街だった。土産物屋が数軒と、食堂が1軒。人通りはほとんどない。
バス停から5分ほど歩くと、「藤乃屋」と書かれた木の看板が見えた。築何十年だろう。古いが、手入れは行き届いている。玄関先の植え込みは丁寧に刈り込まれ、打ち水がしてあった。
(誰かが、ちゃんとここを大切にしているんだ)
「栗原さんですね。お待ちしておりました」
玄関に立っていたのは、背の高い男性だった。白いシャツに紺のカーディガン。銀色が混じった髪を短く整え、顔には深い笑い皺がある。50代半ばだろうか。電話で聞いたあの声だ、とすぐに分かった。
(ああ、この声だ)
目の前に立つ人は、声通りの人だった。穏やかで、でも少し疲れた目をしている。
「藤堂雅彦です。遠いところをよくいらしてくださいました」
深く頭を下げられ、よし子は慌てて頭を下げ返した。
「栗原よし子です。よ、よろしくお願いします」
緊張で声が裏返った。藤堂さんは気にする様子もなく、穏やかに微笑んだ。
「まずは中をご覧になりますか。歩きながらご説明しますよ」
館内を案内されながら、よし子は目を見張った。古い建物だが、廊下の板はピカピカに磨かれている。窓からは山の緑と、眼下に広がる渓谷が見えた。
「妻が生きていた頃は、もう少し賑わっていたんですが」
藤堂さんがぽつりと言った。よし子は彼の横顔を見た。穏やかな表情の奥に、寂しさが滲んでいる。
「5年前に事故で亡くしまして。それから、なかなか人手が集まらなくて」
「そうでしたか……。大変でしたね」
自分も夫を亡くしている。その痛みは、言葉にしなくても分かる。藤堂さんがこちらを見た。目が合った瞬間、何かが通じ合った気がした。