藤堂さんが穏やかに答えた。

「経験不問で募集したんだから。河村さん、教えてあげてください」

節子は不満そうに唇を結んだが、「分かりました」と言って踵を返した。よし子は小さくなって後を追った。

それからの1週間は地獄だった。朝5時に起きて廊下の雑巾がけ。朝食の配膳、客室の掃除、布団の上げ下ろし。午後は夕食の準備の手伝いと、風呂場の掃除。節子の指導は容赦なかった。

「湯呑の持ち方が違う。お客様に失礼でしょう」

「布団の角が揃ってない。やり直し」

「そんなへっぴり腰でお辞儀されたら、うちの旅館の品格が下がるわ」

夜、部屋に戻ると体のあちこちが痛んだ。慣れない正座で膝が腫れ、雑巾がけで腰がきしむ。

(もうだめかもしれない。私にはこの仕事は向いていない)

何度も辞めようと思った。でも、窓から見える山の稜線を眺めていると、不思議と気持ちが落ち着いた。星がこんなに近くに見える場所で暮らすのは初めてだった。

そして時々、廊下ですれ違う藤堂さんが「頑張っていますね」と声をかけてくれた。

「河村さんは厳しいけれど、悪い人じゃないですから。もう少しだけ、辛抱してもらえますか」

そう言って笑う藤堂さんの顔を見ると、もう少し頑張れる気がした。この人のために——いや、違う。娘のために。美咲の学費のために、私はここにいるのだ。

そう自分に言い聞かせた。

(そう、娘のため。それだけだ)

けれど夜、布団の中で目を閉じると、藤堂さんの穏やかな笑顔が浮かんで消えなかった。

(なんで。なんで消えないの、この顔が)

天井を見つめて、よし子は額に手を当てた。心臓が微かにうるさかった。

次回更新は3月22日(日)、21時の予定です。

 

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