「お前は好きにしろって、言うかもね。お父さん、いつもそうだったでしょう」
正志の口癖だった。優しくて不器用な人だった。大きな手で頭を撫でてくれるのが好きだった。「よし子と美咲が笑ってるのがいちばん嬉しい」と、何度も言ってくれた。
「行ってきなよ、お母さん」
美咲が顔を上げた。目が赤かったが、声はしっかりしていた。
「私もう18だよ。1人暮らしくらいできるし。お母さんがちゃんとした仕事を見つけてくれるなら、その方が安心する」
「美咲——」
「ただし、毎日LINEしてよ。あと月一じゃなくて、月に2回は帰ってきて」
泣きそうになるのをこらえて、よし子は頷いた。
(ごめんね、美咲。こんな選択をさせてしまって)
翌日、ハローワークから旅館に問い合わせてもらった。電話の向こうで、低く落ち着いた男の声が応えた。
「ありがとうございます。いつでもいらしてください。面接というほど堅苦しいものではないので、まずは旅館を見ていただければ」
穏やかな声だった。春の陽だまりのような、不思議と心が和む声。
(あれ)
電話を終えた後、よし子は自分の手のひらが汗ばんでいることに気がついた。
(なんで手が汗ばんでいるの。ただの仕事の電話なのに。なんだろう、この声)
胸の奥で、何かが小さく動いた気がした。それが希望なのか不安なのか、このときのよし子にはまだ分からなかった。
次回更新は3月21日(土)、21時の予定です。
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