「父さん…。例え父さんであっても、戦果、作戦の事に関しては、一言たりとも洩らすわけにはいきません。新聞報道も検閲があって、片寄った報道には見えますが、それを受け入れるしかないのです。まして陸軍に関しては、自分が論評するわけにはいきません」俊介は即座に答えを返した。
「そうか…もっともな話だ…。それでは野暮な話は抜きにして、もう一度祝盃を上げようぜ…。お前と酒をくみ交すのも、初めてだしな……」
こうして正月と俊介、伸子の佳き日の祝いを、和やかな雰囲気の中団欒し、誰もが日頃の緊張の糸を弛めたのだった。
部屋数も増え、ゆとりさえ感じた我が家の旅館。職場の喧騒から離れた静かな箱根の奥座敷仙石原。二人は束の間の非日常で、磨り減っていた神経にしばし癒しの休息を貰ったのだった。
しかし翌日の午後、もう二人はその背筋に緊張の糸を張り直すと、再び戦時色を背負うようにオーバーコートに身を包み、出達していった。出掛けに「今度はいつ来れそうかな?」と又二郎は問い掛けた。
俊介の答えは「未定です」のすげない一言であった。「そうか…」又二郎は少し間を置いた。「我が家は世の中がどう変ってもこの温泉があり、箱根の自然がある限り、ここに居るからな…」と都合ついたらいつでも帰って来て欲しいという精一杯の願いを込めて、二人を送り出した。
二人が再び訪れる約束を出来ない状況で帰ってしまう事に、わかっていても寂しさを禁じ得ず、独り愚痴を洩らすのであった。
「病気と同じで長引くものは、決していい事はないだに。戦費はかさみありとあらゆる負担は、最後はわっちらにおおいかぶさってくるだに…。節約や倹約では、おっつかないだに…。満州国で納まっていれば良かっただにが、弾みがついたか欲が過ぎて判断を誤ったのか…。
俊介は一言も触れたがらなかったが、大陸での戦局は、どうやら泥沼に足を取られている様だ。水争い一つとっても、理にかなった分かち合いが出来んだから…。国土となったら奪われる方は、死に物狂いの抵抗があって当り前の事よ。こんな事を思うなんて、罰あたりもはなはだしいけんど、ほんとうに何かが狂ってしまっているだに…。
俺等の婚約、新婚時代。何にもなくたって、ただただ働く事で夢につなげられる先行きの明るさがあった。
国家総動員法が全てを縛ってしまっている今、軍人とはいえ俊介達の行く末がどうなるのか、つい杞憂と不安の虜になってしまうだに」
しかし国運というべきか、時代の流れは間違いなく又二郎の予感が的中する方向に動いていたのである。
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