通算3枚目のアルバム『パブリック・プレッシャー』のラストは「BACK IN TOKYO」という自己紹介をヴォコーダーというロボットのような音声を出せる機械で行ったものであるが、それはこの中野サンプラザのライヴのときに収録されたもので、「キョージュ!」「ホソノ!」「ユキヒロ!」といった観客のさまざまな歓声が人気の萌芽を証明している。

1979年末当時ではYMOはまだ一般的には知名度が低かった。

坂本龍一のニックネームである〈教授〉はその当時のサブカルエリートしか知らないニックネームであり、高橋幸宏の当時のクレジットは高橋ユキヒロであり、高橋のことをユキヒロと呼ぶのは、YMOを熟知している若者だけだった。

サブカルエリートは、坂本のことを「キョージュ!」、高橋のことを「ユキヒロ!」と呼ぶことで感度の高さを誇示していると言える。

1980年2月21日、その『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』が発売される。

このアルバムはグリーク・シアター、トランス・アトランティック・ツアー、中野サンプラザのライヴを収録したものからベストパフォーマンスを選び抜いたもの。

ワールドツアーのときには村井、川添にはすでに「3枚目はライブアルバム」という構想があり、当時のライヴを録音していたのである。

このライヴアルバムがYMO大ブームのトリガーとなる2

『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』はオリコン3月10日付週間LPチャートで早くも1位となり、それに引きずられる形で『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が5位に『イエロー・マジック・オーケストラ』が27位と、30位以内に3枚ともランクインするという爆発的ヒットとなる。

田中はこの現象を次のように分析する。

 

「ライヴ盤が最初に1位になったのには意味がある。

YMOがロックバンドとしての実態を露わにしたことから、バンドは市民権を得るのだ。

それまでは得体のしれない、ディスコとは名ばかりの、奇っ怪なインストルメンタルに過ぎなかった3

 

つまり、それまでYMOの3人のビジュアルやキャラクターは謎めいていたのだが、すっかり顕になったことでYMOは一般的に広く知れ渡ることになったのである。


1――鋤田によると、当時麻雀が流行っていたから現場で用意された台を麻雀卓に見立て、4人必要なのでマネキンを置いたという、現場でのアイデアによるもの。

ヒット前はサブカルの手作り感溢れる現場だったのである。

2――帰国した時にYMO3人が感じた不安感により、ワールドツアーライブアルバムのタイトルが『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』にYMO総意で決まった。

3――田中雄二『シン・YMO』

次回更新は4月9日(木)、20時の予定です。

 

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