【前回の記事を読む】敏腕Pの暗躍。大手米国レーベルの役員をしこたま飲ませて酔わせると、『リリースしよう!』と言うので、すぐさま本土の社長に電話させた
DiscI YMOバイオグラフィー
Track1. 突如出現した電子音の魔法
新しい波の源
1979年2月に細野はアメリカへ渡り、アメリカ版『Yellow Magic Orchestra』のリミックスに参加した。
アメリカ版のジャケットはGEISHAがサングラスをかけ髪の毛が電線やプラグになっている。ソニーやホンダのグローバルなテクノロジーに加えて、音楽でも新しいNIPPONのイメージをアメリカ人に訴えかけるような、オリエンタルかつ無国籍性、多国籍性を、このアルバムジャケットは表象している。このジャケットはA&Mのアイデアである。
アメリカが求めたのはカウンター・オリエンタリズムだ。
50年代川添浩史が行った『アヅマカブキ』ではオリエンタリズムを期待するアメリカの風土があった。それから四半世紀を経て、アメリカが日本のカルチャーに求めたのは、過剰なまでのオリエンタリズム=カウンター・オリエンタリズムであったのだ。
細野は帰国後、YMOのセカンドアルバム制作を村井から依頼され、1979年3月には2枚目のアルバムのレコーディングが始まる。
坂本は2枚目のレコーディングの感想を下記のように述べている。
「仕事の内容は楽しかったですね。好きなことをしていたし、(中略)ふたりともとても素晴らしいミュージシャンなので、一緒にやっていて楽しい。二枚目を作るのも楽しい作業でした1」
高橋も同じ感覚を持っていた。
「『その時の作業はとんとん拍子でした。ほとんど毎日スタジオに行って。二枚目のレコーディングは最高でしたよ』
とりわけ高橋は、一枚目の録音から二枚目の録音にかけて、三人の中で最もエネルギッシュだった。精力的で意欲的だった。
そしてその時期に熱中していたニューウェイヴの要素を二枚目のサウンドに持ち込もうとした2」