【前回の記事を読む】「キャンティ」創業者の息子・川添象郎と、アルファミュージックの創業者・村井邦彦。もし、彼らがいなければYMOは…
DiscI YMOバイオグラフィー
Track1. 突如出現した電子音の魔法
誕生前夜〜キャンティとアルファレコード
1971年、当時立教女学院高校2年生の荒井由実が、類稀なる作詞作曲能力を持っていることを村井は知り、荒井由実と作家契約をする。
荒井自身が歌唱するデビュー作は1972年発売の『返事はいらない』で、この曲のプロデュースは細野晴臣が関わり、ドラムは高橋幸宏だった。
村井が細野と出会ったのは1971年小坂忠の初のソロアルバムのレコーディングに細野が参加したことがきっかけである。
その後細野は、荒井のデビューアルバム『ひこうき雲』のプロデューサー兼ベースを担当する。そして荒井由実としてのラストアルバム『14番目の月』まですべてのアルバムでアレンジやレコーディングなどで参加していた。
荒井は『あの日にかえりたい』『卒業写真』『ルージュの伝言』など名作を多数ヒットさせる。しかし1976年に音楽活動を引退し、松任谷正隆と結婚。村井のもとを離れる。
これは村井の誤算であった。稼ぎ頭を失ってしまった村井は〈世界進出〉という夢を叶えるべく、細野にプロデューサー契約をアルファと結ばないか打診をする。
細野はそのときのことをこう語る。
「僕はその時村井さんの視野はやっぱりアメリカなんだろうなと感じました。(中略)そういう方向なら音楽的には自分と同じだと思ったんです。村井さんはやることが早いから、年が明けたらアメリカで発売できるレコードを作ろうと、そこから色々と始まったわけです1」
これまで、さまざまな民族音楽の要素を取り入れてきた細野の次なる狙いも、アメリカ進出だったのである。細野がイエロー・マジック・オーケストラの結成を発表した1977年当時はメンバーの確定はなかった。
しかし、細野の中には坂本龍一、高橋幸宏をメンバーに入れることはなんとなく構想していたものであろうと考えられる。
77年12月、細野はアルファ移籍後初のソロアルバム『はらいそ』のレコーディングを始める。
78年1月、その中の一曲『ファム・ファタール~妖婦』の収録で高橋幸宏、坂本龍一3人が初めて集まる。