【前回の記事を読む】港区の伝説的サロン「キャンティ」。三島に勝新、黒澤明などシーンを席巻した文化人の中に1人、女子中学生が出入りしていた。彼女の名は…
DiscI YMOバイオグラフィー
Track1. 突如出現した電子音の魔法
誕生前夜〜キャンティとアルファレコード
当時のキャンティの雰囲気を象郎は以下のように述べている。
「たとえば、ある晩のキャンティはこんな具合。
奥のテーブルではハリウッド女優シャーリー・マクレーンとシャンソン歌手のイヴ・モンタンを前に作家の大江健三郎が難しい英単語を駆使して文化論を話しまくっている。
(中略)その隣のテーブルでは、日本初のコレクションでパリからやって来た若きデザイナーのイヴ・サンローラン一行とタンタンがニコニコと歓談しており、反対の壁際では、口をへの字に曲げて着物姿でスパゲッティを食べている、時代小説で有名な柴田錬三郎に対して父が食べ物談義を開陳している。
(中略)なんとも浮世離れした不思議な空間である1」
このように、キャンティは文化的・国際的・年齢的垣根を越えてさまざまなアーティストや希望に満ちた若者が交流を行うサロンであり、未来のサブカルエリートたちを育てたのである。
そのような環境下で育った川添象郎は、浩史の後押しもあって世界的ショウビズの世界へ飛び出した。
1960年象郎は初めて国外に出る。最初はハリウッド映画のアシスタントや、ラスベガスの舞台美術のアシスタントなどをしていたが、ニューヨークに移り住んだ後、象郎独自の音楽に目覚め、独自でショウビズの世界を広げる。
この経験が川添象郎にとって、そしてYMOの世界進出にとって貴重なものとなる。
川添象郎は下記のように回想する。
「ニューヨークでの一九六一〜六四年は僕にとってまさに黄金の青春時代だった。後年、音楽を中心とした仕事で活かされる経験、価値観、世界観の多くはこの時代に培われたものだ2」
川添象郎はイタリア、スペイン、フランスなど欧米での数々の興行にも携わり、ピエール・カルダンなど多くのデザイナー、芸術家、技術者との人脈も作った。川添象郎の経験無くしてはYMOのグローバル展開は成し得なかったと言える。