もう一人の重要人物、アルファレコードを創業した村井邦彦は小学校から高校まで暁星学園で学んでいたが、慶應義塾大学のビッグバンドサークル、ライト・ミュージック・ソサイエティに入部したくて慶應大学に進んだ。
大学卒業後、村井はドレミ商会というレコード店を開業する。ヒット曲を聴くうちに、これなら自分でも作曲ができるのではないかと思い、曲作りを開始。
ザ・テンプターズ『エメラルドの伝説』、ピーター『夜と朝のあいだに』などのヒット曲を連発する。
村井は、音楽出版権や著作権がどういうものなのか、まだ一般にはよく理解されていなかった時代に、その重要性を重く受け止め、自身で1969年アルファミュージックを創立する。
しかし、ほかの大手レコード会社に比べるとアルファはあまりにも小さかった。
村井が初めてキャンティに行ったのは、オープンして間もない頃で、川添象郎の弟である光郎(後のキャンティのオーナー)と仲が良かった友人に誘われてのことである。
川添象郎との出会いもキャンティである。川添と意気投合した村井は、川添をアルファの制作宣伝統括取締役として招く。
キャンティで村井は「川添浩史から薫陶をうけ、梶子から美意識を学び、長男の象郎とは長く一緒に仕事をするパートナー3」となったのである。
販売網を持たないアルファは販売を大手に委ねるしかなく、制作費は自社持ちで、売上の印税を販売元の大手レコード会社から受け取る仕組みで販売をした。
村井が著作権にいち早く目をつけたのは、大手に対抗しうる権利を勝ちとるためでもある。
このこだわりが、アーティストファーストの村井の信念とも繋がる。
「村井は『作家の自由な発想で音楽制作すること』と『国際的な音楽ビジネスに参入すること』を会社の目的とし、その意志を貫くためにも自分たちで原盤制作を手がけることにした4」のである。
大手資本のレコード会社となると〈作家の自由な発想〉は、当然さまざまな方面から規制を受ける。
自らがミュージシャンであった村井は、レコード会社の営利主義が発想の自由を規制しないようアルファからレコード出版を目指したのである。
インディーズレーベルであるにもかかわらず、アルファレコードは東芝の販売網を借りることで、フォークグループ・赤い鳥、コーラスグループ・ハイ・ファイ・セットなどの楽曲でヒットを飛ばすが、なんといっても村井の慧眼は荒井由実の発見とデビューであったであろう。
1――川添象郎『象の記憶』
2――川添
坂本九『上を向いて歩こう』が全米ヒットしたのは1963年で川添がNYにいた頃だが、坂本九について川添が何かを語っている文献は見当たらない。
3――松木直也『アルファの伝説 音楽家 村井邦彦の時代』
4――松木
次回更新は4月2日(木)、20時の予定です。
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