エステ氏はそう確認すると、額装用の作業台の奥に立てかけられた衝立の陰に消えた。宗像は今ごろ何を言うのかと思いながら、左側の壁に架かっている夥しい種類の額縁枠見本の中に、金縁の鏡が掛かっているのに気がついた。
何気なく鏡を覗き込むと、ちょうど良い具合にエステ氏の後ろ姿が斜めに映っていた。額の見本を見る振りをして鏡を見つめると、衝立の横に床置きの黒い耐火キャビネットが据え付けられているのが見えていた。
エステ氏は二つあるダイヤルの一つに手をかけて回そうとしていた。左が所定の位置で止められると、もう一方のダイヤルに指がかかり、同じように回した。キャビネットの上にはうず高く書籍が積まれ、その左に小さな流し台が見えている。そこには小振りなエスプレッソ・マシンと、ワインの瓶が二本並べられていた。
平らな傘付の照明器具が、黄色い光を放ちながら天井から吊り下がり、狭くてほの暗い場所で操作をするエステ氏の手元を照らしていた。セッティングが完了したのだろうか、両手が左右のハンドルに掛かり、外側に捻ると同時に、扉が開いて灯りが外に漏れた。キャビネットの内部には照明が仕込まれているようだ。
エステ氏は内部の引き出しに手を掛けると手前に引いた。差し入れられた手に摘まれて出てきたのは、小さな四角い紙切れのようなものだった。再びキャビネットが元の位置に閉められ、二つCのダイヤルがランダムに回されるのを見届けるやいなや、宗像は身体を戻すと入り口近くに架けられた絵を見ている振りをした。
「いや、お待たせしました」
二点のリトグラフが丸い筒の中に重ねて納められ、例のキャビネットから取り出された四角い紙切れが手渡された。それは薄汚れた黄色い洋封筒だった。宗像はクレジット・カードでサインをしながら尋ねた。
「これは何ですか?」
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商