一日の仕事が終わり安堵する時間。日中の蒸し暑さは残っているが、やはり外の空気は気持ちが良い。新島は一人ベンチに腰を下ろした、童話の挿絵に出てくるような夕焼けが美しい。さまざまな人と出会い、驚いたり笑ったり、慌ただしい三日間だった。

──俺はここでやっていく──

自分に言い聞かせてタバコに火を点けた。美しい夕焼けのせいか高揚している。一人悦に入り高倉健を気取って、今度は低い声を出して言ってみた。

「私はここでやっていく」

誰にも聞かれたくない、自分に酔って言った言葉だったが間が悪かった。

何と! 目の前に千葉さんが現れた。何か忘れ物でも取りに戻ったのか、車のキーを指に掛けたままペコリと頭を下げてきた。

──しまった! 今の聞こえちゃった──

狼狽えてはならない、平静を取り繕った。

「まだこの時間は暑いねー」

「はい、暑いです」

千葉さんは大人だ。高倉健気取りを揶揄することなく、当たり前の言葉で返してくれた。

白い運動靴が健康的だ。

「新島さんは……」

千葉さんは含みのある言葉を口にしようとしている。

「新島さんは黒沼さんのことを『黒沼さん』って言いますよね」 この人は何を言いたいのか。

「はい」

「そういうの、良いなーって思いました」

「え? そうですか」

「この会社の人は黒沼さんのことを『黒沼さん』なんて呼びません。『黒沼』って呼ぶのです」

「そのようですね」

「前の係長なんか『クロ』って呼んでいました、怒鳴りつけるように『クロ』って。午前中の会議でも近藤さんが、黒沼の奴って言っていました。そういうの、何か感じ悪いです」

そういうことだったのか。呼び方に拘っていたのだ。新島は午前中の会議での千葉さんの発言を思い出していた。

「千葉さんは黒沼さんのお姉さんとは知り合いなのですか?」

「はい、糸さんはよく知っています」

「糸さん?」

「黒沼さんのお姉さんの名前です」

次回更新は3月22日(日)、20時の予定です。

 

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