依頼者の研究室に結果を持っていくと、「これはすごいですね」と言ってもらった。何がすごいのかわからなかったが、その夜に研究室の飲み会に誘ってもらい、未成年だが初めての酒を飲んだ。対等に接してもらったことが嬉しくて、その夜は眠れなかったのを今でも覚えている。

研究所で出会った人々は雲の上の存在なのに、ここの人たちは何でこんなに丁寧に接してくれるのだろう。何でこんなに親切なのだろう。初めて接する人間性にカルチャーショックを受けた。

とにかく新島は感化されやすい。尊敬できる憧れの先輩の癖。ペンをおでこに当て、考える仕草は真似るだけで気分が良かった。「なるほど」とか「つまり」とか、先輩のよく使う言葉を真似ては、自分が成長したように思い込んでいた。くすぐったい青春の記憶だ。

新しい職場に来る前の新島の立場は研究補助員。実験の手伝い、データ取り、黒子の役を十年あまりずっとやってきた。黒子の意義は理解しているつもりだが、さすがに十年超という時間は長い。

研究のテーマも持たずそれに伴う責任も持たず、自らが判断を下す課題もない。いつも誰かの補助役、気楽ではあるが虚しさも感じ始めていたときに転勤の話がきた。

「工場のほうからの指名でね、新島君に係長職で来てほしいって」

赤ら顔の人事部長は言いにくそうに切り出した。

「悪い話ではないと思うが……どうかな?」

新島は拒否するだろう、嫌なら拒否しても構わないよ、そんな話し振りだった。

「わかりました。よろしくお願いします」

新島が即答すると人事部長は軽い驚きの表情を見せたあと、にわかに笑顔になって、

「そうだよ、指名されるなんてすごいことだからね」

と喜んだ。人事部長はこの異動を都落ちと捉えていたようだが、しかし新島はそうではない、区切りだと考えた。いわば人生の振り出しに戻ろうと。新島は前を向いてファイバー一係の職場にやって来たのだ。

次回更新は3月19日(木)、20時の予定です。

 

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