【前回の記事を読む】足利義満は、世阿弥のために一人で戦い抜くことを決めた。南北朝を統一して、京都で「能」の公演を——

第二章 変化(一三七九年)

加賀局は義満と同年齢、既に結婚して子供もいたが義満は忽ち恋に落ち、子をなした。

一三八一年一月十一日に男子が生まれたが、嫡子とは扱われず、寺預かりとなった。

一三八一年三月、義満は新築成った室町第に後円融天皇を招き、六日間に亘って接待した。「将軍の私邸への行幸」は前例が無く、公家達にとっては一大事であったが、義満にとって天皇は同い年の従兄弟。何ら臆する事は無かった。

盛大な宴は、鳳凰の飾り付きの輿でやって来た後円融天皇が義満に天杯を与える儀式から始まった。

古式に則って義満は返礼の舞を舞ったが、神経質そうな天皇と対照的に落ち着き払った義満の舞姿は優美にして完璧、居並ぶ公家達も敵わないと思う程の貴公子振りを見せ付けた。

続いて舞楽に蹴鞠、舟に乗っての詩歌管絃と、平安絵巻さながらの優雅な催しが繰り広げられるに連れ、義満の才能と教養とセンスが際立って見えた。

姉妹である義満と後円融天皇の母達も、楽しみながら、ついつい互いの息子達を見比べてしまっていた。

極め付けは義満がこの日の為に稽古に励んでいた笙の演奏であった。

義満の笙は、「達智門(だっちもん)」という名器で、百年以上囲炉裏で燻された竹で作られたと言われており、その形は鳳凰の様に美しく、音色は力強かった。

その日義満が選んだ曲の調は「双調」、春に相応しく、浮き立つ様な華やかさを振りまいた。その玄人はだしの演奏に聞き惚れながら、十年以上前、父足利義詮法要の際に僧侶が義満を評した言葉を思い出す者も多かった。

「年僅か十歳であるが、容貌は端厳にして慈あり、威あり、恰(あたか)も鳳凰児の、まさに羽儀(うぎ)を整えるが如くであり、獅子児の咆哮せんと欲するが如しである」

その日人々は見事に成長した鳳凰、或いは咆哮する獅子を目の当たりにしたのである。

初めこそ、前代未聞の御行幸と恭しく迎え入れられ、気分を良くしていた後円融天皇も、次第に義満に見比べられている事に気が付きだした。

義満の接待は、自身の財力、権力、そして公家的教養をも見せ付ける事にあったのだ。

この行幸以降、三条公忠を含め、殆ど全ての公家達が義満に靡(なび)き、阿諛追従(あゆついしょう)を始めたのも無理は無い。