【前回の記事を読む】将軍と少年芸能者の“友の誓い”――侮辱された世阿弥が将軍義満に願ったこととは…

第二章 変化(一三七九年)

この結果京都は反頼之派の軍に包囲され京都は大混乱に陥り、兎にも角にも細川頼之が追放されなければならない状況に追い込まれてしまった。

一三七九年四月十四日、義満は有力守護を室町第に招集し、遂にその意に反して細川頼之の罷免を宣言した。

細川頼之と言えば将軍を補佐する管領であったが、義満の父義詮が死の床で「汝に一子与えん」と、十歳の義満を託した男、謂わば第二の父。しかもその妻は義満の乳母。弟満詮と違って幼い時から母から離れて育った義満にとって実母以上の存在であった。

この様に実の両親以上の存在である細川頼之夫妻を自らの手で追放しなければならないとは、正に痛恨の極みであった。しかし、当の頼之は、守護達の醜い権力闘争にこれ以上巻き込まれたくないと思っていたので、淡々としたものだった。

――守護共は皆、権力の亡者、嫉妬と怨念のみで動いておる。管領の権限がそんなに羨ましいなら、呉れてやるわ。わしには何の未練も無い。

義満殿も、もう立派な大将。危なっかしいと思っていたがどうしてどうして、いつの間にか尊氏殿譲りの不思議な御威光を宿らせておいでじゃ。満詮殿も皆にあれだけ慕われている事だし、あの御兄弟ならば兵は皆付いて行くに違いない。わしも安心して引っ込む事が出来る――

実は細川頼之には、管領の職を離れて密かに期する事があった。南朝との交渉である。これ程微妙かつ複雑な政治交渉は、生半可(なまはんか)な守護に任せる事は出来無い。

正式な追討令を受けた細川頼之は、四十八歳で壮絶な戦死を遂げた父、頼春の事を思った。頼春は、義満の父義詮を守る為、手勢三百騎で三千騎の敵を迎え撃ち、落馬しても尚敵二人を切り、遂に槍で突かれて絶命したという。

又、十八年前に風情ありと評判を呼んだ、佐々木道誉の都落ちの事も頭を過(よぎ)った。道誉は屋敷を出る際、後から入って来る敵将楠正儀(まさのり)の為に部屋を美しい花瓶や香炉で飾り立て、王羲之(おうぎし)の書を掲げ、三石の酒を振る舞う侍者迄残して去って行ったという。