「父上には武勲もあるが、和歌も上手かった。『梓弓 家に伝えて 青柳の いともかしこき ならひにぞ弾く』だったかな。わしにはとても真似が出来無い。佐々木道誉程の風流も出来ぬ。まあ兎に角、わしはわしの流儀で行くしかあるまい」
翌日の朝早く、頭を丸めた細川頼之が三百騎を従えて悠然と都大路を下り、京都を後にした。その、一糸乱れぬ見事な行列振りに京都の人々は感嘆した。京都を取り囲んでいた数千人の反頼之派軍勢も攻撃を仕掛けず、敬意を表して見送った。主のいない部屋の机上には、頼之自らが書いた七言絶句が残されていた。
『人生五十 功なきを愧(は)づ
花木春過ぎて 夏すでになかば
満室の蒼蠅は 掃えども 尽くし難し
去りて 禅榻(ぜんとう)を訪ね 清風に臥(が)せん』
頼之を守り切れなかった為に、珍しく鬱々としていた義満は、この頼之の七言絶句を伝え聞いて、快哉を挙げた。
「蒼蠅だって? 上手い事を言いおる。あの、欲の皮の突っ張った守護共は全く煩い蠅じゃ。頼之よ待っておれ、いつか蠅共を掃って必ずそちを都に戻してやるからな」
京都が政治的に混乱しているのを見て、鎌倉の足利氏満が将軍職を狙って反乱を企てた。氏満は義満の一歳年下の従兄弟である。しかし、関東管領の上杉憲春(のりはる)が切腹して氏満の野心を思い留まらせた。反乱は未遂に終わったとはいえ、義満にとってはかなり大きな衝撃であった。
同じ頃、義満は世阿弥の父観阿弥が実は楠正成の甥である事を知らされた。楠正成といえば南朝の代表。言わずと知れた足利尊氏の宿敵である。
「しかし、楠正成の様な武士の甥がどうして能役者になど成ったのじゃ」