【前回の記事を読む】バブル崩壊で父が自殺。父の生命保険と家の売却でなんとか自己破産を免れたが、母親にひどい浪費癖があり…

太巻きとロウホウズ

「お母さん、お母さん、玄関にカニがいるよ!」

「それは町のカニって言うのよ」

この辺りの人たちは海にいるのは海のカニ、家に来るのは町のカニと区別する。

正確にはアカテガニであろう。

アカテガニは普段は山に生息して、夏の満月の夜に山から下りてきて海で産卵する。

その時にこの辺りの家も通るのだ。

紫衣は詩麻が喜ぶ様子を見て、鎌倉に越して良かった、と心から思っていた。

——私も海が好きだったから。詩麻も海の大きさ、海の優しさを感じてね——

詩麻はその通り、海の大好きな子供になり、小学生になる頃には近所のお兄ちゃんからサーフィンを教わっていた。

詩麻は皆から可愛がられ、波のいい日はすぐに海に行っていた。

海から徒歩五分の紫衣の家には広い庭があり、草木染めをしている紫衣が好む植物がたくさん植えられていた。

三十を越した紫衣は鎌倉の自然に溶け込むようにして生き、そんな紫衣から草木染めを習いたいという生徒も増え出していた。

晴れた日には大きな鍋を庭に出して布をグツグツと煮て、生徒たちと笑いながらゆっくりとした時間を育んでいた。詩麻が小学校から帰るとじっくりと焼かれて甘味が増した焼き芋を出してくれる母だった。

詩麻はそれを頬張り、北風が吹いて波の綺麗な時は海に向かいサーフィンをした。

詩麻は母の動きが好きだった。優雅で凛としており、そして柔らかだった。

父親の話は聞いたことがない。しかし紫衣を見ていたらきっと素敵な人であったことはわかる。紫衣はまだその人に恋していたから。

紫衣は詩麻が十才くらいになる頃からこう口にするようになった。

「ねぇ、詩麻。私はね、詩麻を産んでとてもよかったと思うの。それはあなたが生き甲斐になるとかそういうことではないのよ。あなたが欲しいと言った人と出会えたから。私はあの瞬間から生きている全ての時間が幸せに変わったの。

ねぇ、詩麻、あなたはあなたの道を生きるのよ。誤解しないでね。あなたのことを好きでないとかではないの。私は私のお父さんやお母さんに愛されて、そして私も両親を愛して、堪らなく好きだったからいつもどこかでそれに縛られていたの。

もう私を縛る人はいないから、私は風のように生きたいの。だからあなたもあなたの風を見つけて生きてね」

幼い詩麻にはよくわからなかったが、紫衣が彼女を対等なパートナーだと思ってくれているのは感じた。

 詩麻はいつも頷いた。

 風のように生きる。

 どんななのかな。

紫衣の作るご飯には地球の優しさを感じた。

鎌倉野菜と、時には近所の漁師さんの直売のシラスやタコ、それだけで十分なご馳走だった。

いつも素材の美味しさを生かすご飯を食べていたから詩麻の味覚は汚染されることなく研ぎ澄まされていった。