すると、藤吉郎は下座から威勢よく声を発した。

「どうか藤吉郎に発言の機会をくださいませ。調略活動の成果をお伝えします」

「申してみよ」

「は、美濃周辺への調略活動の成果として、美濃国、松倉城主(現在の岐阜県羽島郡川島町)坪内利貞・大沢基康を我が方に裏切らせ、味方につけもうした。

更に、美濃の武将を織田方への引き抜きに成功してございます。

よって、美濃の竜興の館や様々な情報を入手いたしました。今後の戦術に大いに役立ちます」と藤吉郎は力強く言い放った。

更に、「ゆくゆくは、今回の見返りとして彼らに所領の安堵をお願いしたく存じます」と進言した。

実際、永禄8年(1565年)、信長は、坪内利定に美濃国、尾張国両方の国の国境付近の所領支配を認可する書状、知行安堵状(ちぎょうあんどじょう)を出している。

更に秀吉は、彼らへお礼として副状(そえじょう)1通を秀吉の名で公式に出している。

これが確認された秀吉最初の発給文書である。

那古屋を出国して以来、草鞋売りや針売りの行商で諸国を流浪しながらの生活により、情報収集能力、探索、人心を引き付ける術にはずば抜けて長けていった。

そしてその経験と能力が、今回も大いに役に立ったのだ。

次回更新は3月11日(水)、19時の予定です。

 

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