良馬二匹をたてまつった百済王は誰か
一方の『古事記』である。肖古王は『古事記』には照古王と表記されているが、実はこの照古王の記事が出てくるのは、神功皇后の時代でも仁徳天皇の時代でもない。『古事記』に照古王の名が出てくるのは、この二人の間の応神天皇の時代なのである。
「応神天皇記」には、「百済の国主(こにきし)照古王(せうこわう)、牡馬(をま)壹疋(ひとつ)、牝馬(めま)壹疋(ひとつ)を阿知吉師(あちきし)に付(つ)けて貢上(たてまつ)りき」と記されているのだ。これはどう受け止めればいいのだろう。
『日本書紀』が記している各天皇(神功・応神・仁徳)の即位年と在位期間から逆算すれば、応神天皇の時代に照古王が居たはずはないのだ。もし応神天皇の時代に照古王が居たという『古事記』の記述が正しいのであれば、これは『日本書紀』の各天皇の即位年と在位期間が間違っているのだと受け止める以外にはないのである。
だとすれば、各天皇の正しい即位年と在位期間はどこに求めればいいのであろうか。
こうして、『古事記』と比較しながら『日本書紀』「応神天皇紀」を読み進めていくと、ある不可解な記事に気付くのである。それは「応神天皇紀」の十五年条の記事である。そこには「百済の王(こきし)、阿直岐(あちき)を遣(まだ)して、良馬(よきうま)二匹(ふたつぎ)を貢(たてまつ)る」とある。
何が不可解なのかというと、百済王が良馬二匹をたてまつったのは、『古事記』と同じく応神天皇の時代だったと『日本書紀』も記しているのである。しかも、この記事には百済王の名は記してないのである。
「阿知吉師(あちきし)」と「阿直岐(あちき)」は恐らく同一人物であろうと思われるのであるが、『古事記』に記された王の名が「照古王」であるのに対して、『日本書紀』の方は前後の記事から推察すると四代後の「阿花王」になるのである。
『日本書紀』はなぜ「阿花王」の名を記さなかったのであろうか。
ここで考えられることは、『日本書紀』は『古事記』の記事を利用して何かを伝えようとしているのではないかということである。
すでに見てきたように、応神天皇の時代に照古王が居たのだとすれば、『日本書紀』の各天皇の即位年と在位期間は間違いなのである。百済王が良馬二匹をたてまつったのは、『古事記』が記している通り応神天皇の時代だった。そしてその時の王はやはり照古王(肖古王)だった、とすればどうなるだろう。
もしここにはっきりと「阿花王」の名があれば、これは百二十年繰り下げるべき記事だと判断することになる。
だがここに『日本書紀』の意図が隠されているとしたらどうか。実際には百済王の名は伏せられているわけであるが、その名を伏すことで照古王(肖古王)を暗示しているのだとしたらどうなるだろう。この記事は、百二十年繰り下げるわけにはいかなくなるのだ。つまり、この記事はそのまま「応神紀」の十五年条として残ることになるのである。
この記事は、これまでの記事とは違う意味を持っているのである。この記事の存在によって、私たちは各天皇の正しい即位年と在位期間についての新たな示唆を得たことになるのではないか。