【前回の記事を読む】どうして、何のために? 彼らが間違うはずがない。百済王の即位と薨去年から見える「神功皇后紀」の意図的な120年のずれ
第一章 「神功皇后紀」・「応神天皇紀」のからくり
2.なぜ干支二運をさかのぼらせたのか
肖古王が薨去した時の天皇は誰か
では、なぜ干支二運をさかのぼらせたのであろうか。「記・紀」における百済王の記事から考えてみよう。
まず、『日本書紀』である。肖古王の薨去は、神功五十五年(太歳乙亥(きのとい))。西暦換算では二五五年、これに百二十年を加えると三七五年となる。
前述の通りであるが、これは百二十年後の時代に神功皇后の時代がそのまま丸ごと移動するということであろうか。だとすれば、神功皇后の在位は三二一年(太歳辛巳(かのとみ))から三八九年(太歳己丑(つちのとうし))までだということになる。
それとも、移動の対象になるのはこの神功五十五年の肖古王薨去の記事だけなのであろうか。だとすれば、この記事は神功皇后(在位六十九年)の時代から次の応神天皇(在位四十一年)の時代を越えて、仁徳天皇(在位八十七年)の時代にまで繰り下がることになる。この場合、肖古王が薨じたのは仁徳六十三年(太歳乙亥)だということになる。
いずれにしても、干支二運(百二十年)を繰り下げて百済記関連の記事を元に戻すという条件だけではその時代の天皇は誰なのか。神功皇后なのか、仁徳天皇なのか。いずれとも決め難いのである。つまり年表の中に肖古王が薨去した年次が実年代で記されていても、それだけではこの国のその時代の天皇を確定させることはできないわけである。