実際、信長は、領内の主軸となる拠点から税を徴収した。そうすることで、経済圏の発展と並行し自らの経済力を蓄えた。勿論、その財力は、更なる天下布武の公共施設の橋、道路整備、出城の建設、優秀な人材確保へと有益に活用された。

築城の手法は、美濃攻略の後、金華山、岐阜と改名した岐阜城や安土城へも展開される。

五箇条の指針は、信長から羽柴秀吉、徳川家康へ継承されたことを鑑みれば、如何に信長の発想が先進的で合理的なものであったかが伺えるであろう。

この拠点(城)を中心に民を集客し商業圏を拡大させ、資金を集め経済発展をさせる発想は現在にも通じる脅威的な閃きであった。

信長は、人心掌握術にも長けていた。それは城の引っ越しでも遺憾なく発揮される。

元来、尾張地域は、至極土着意識の高い土地柄である。それ故、家臣たちは主城だった清州城(現在の清須市)から小牧山(小牧市)への引っ越しでさえ移転を嫌がった。

家臣たちは、居住していた清州が裕福な土地であり農作にも居住にも利便性が高かったことに満足していた。そして、統治上、尾張国の中心に位置しており、交通移動の利便性も至便な土地だった。

それゆえ信長は、最初は小牧より困難な土地への引っ越し先を家臣に伝え反応を窺(うかが)った。