【前回の記事を読む】「ここまでは水が来ないから、残って家を守る」と言い張る父を説得できず、家に残して避難してしまった。その後、家に戻ると…

第二章 台風七号の被害の為、東京へ

機械との出会い

一九五九(昭和三十四年)、私は日本製紙赤羽工場で働き始めた。

工場に着いて、まず圧倒されたのはその広さだ。工場の中にはレールが敷かれていた。工場の中には発電所まであった。紙を作る過程では大量の電力が必要になるため、石炭を使って工場内で発電をしていたからだ。

また蒸気もたくさん使うので、工場内には蒸気管もはりめぐらされていた。とにかく何もかもスケールが大きい。

日本製紙本社工場で働き出してしばらくすると、人事部に行くように言われた。

そして人事部では、工作部機械課勤務を命じるという辞令を渡され、機械課に行くように言われた。

機械課に行くと、山梨工場閉鎖の作業で指揮を取っていた課長がいた。

機械課には十名位の技術者がいて、紙を作る機械の整備をしていた。彼らは、私に様々な技術を教えてくれた。

工場には、紙を作るための機械がたくさんあった。ほとんどはメーカーから購入した機械だったが、簡単な機械は自前で作る場合もあり、金属加工の技術は欠かせないものだった。

溶接や素材を削る旋盤などの技術を身に付けたのは、この赤羽工場時代だ。荒削りした部品の表面を滑らかに整える研磨機の使い方も覚えた。

ある日先輩が長さ一メートル以上もある金属の大きなアングルを持ってきて、両面を直角に削れと言う。こんな大きなアングル何に使うのだろうと思ったが、私は一生懸命手にマメを作って削った。

先輩が時々やってきてまだ凹凸があるぞもっときれいにしろと言った。私は何度もやり直して、仕上げた。

しかし出来上がったアングルを置いてあるのに、誰も取りに来ない。何日経ってもほったらかしてある。後に私は気がついた。

これは何かに使うためのアングルではなく、私がどこまでできるか試すためのテストだったのだ。