【前回記事を読む】自転車に乗って出かけた日。サドルが当たった時の股間の感覚は、それまでに感じたことがないもので…
「もはや戦後ではない」
中学生になって誰にも言えない、話せないことが増えていた。
その日、千津は学校の裏門を出ると、線路脇の道を一人で帰った。
中学校の生徒たちは普段、広い田圃地帯を横断する、鉄道の線路上を歩いて登下校することが多く、列車が汽笛を鳴らして近づいてきたのがわかると慌てて土手を降りた。
鉄道の枕木には、ここを通る生徒たちが教室から持ち出したチョークを使い、漫画や落書きが沢山書かれてあった。
男子たちから自分が性的な対象として見られたことに傷つき、その事が恥ずかしく、女友達にも言えないまま憤懣やるかたない千津は、彼らに反論すべく、その辺りに落ちていたチョークを拾い、「私が好きなのは叶さん」と枕木に書いた。
彼女にとって、それは誰でもよい名前だった。叶たちとはそろばん塾を辞めて以来、町中で出会うこともあまりなかったのだが。
自分の名前は書いてはいない、辺りに中学生の姿を見かけていない、はずだった。ところが翌日には、この落書きの件は、何故か、級友たちの間に知れ渡っていた。何人かの友達から問われて、千津は必死になって否定した。
秋の日差しが眩しい、土曜の午後だった。
一面に広がる、田園の稲穂は黄金に輝き、収穫の時を待っていた。
千津が放課後の部活動を終えて帰る途中、長福寺の墓地の裏手まで来ると、白いワイシャツに黒ズボン姿の長身の学生が一人、自転車を脇に立っているのが見えた。
それが笹岡達治だとわかった途端、一気に胸の鼓動が高まった。
「どうしてここに」
彼の家は、ここから遠い集落のはずだ。
もしかして、あの落書きの件が彼にまで届いたのだろうか。その内容を千津に確かめようとして、ここで待っていたのだろうか。
快活そうで親しみやすい感じの叶順一郎と比べ、達治は物静かなおとなしそうな人、という印象であった。
互いの距離が近づき、達治と目があった。次の瞬間、相手は何も言わずに突如、自転車にまたがり坂道を下っていった。
千津はそのまま、姿が見えなくなるまで彼を見送っていた。
胸の動悸は、いつまでも収まらなかった。