ギャラリー・エステと書かれた看板の前で立ち止まると、ショー・ウィンドウ越しに何枚かの絵が見えていた。
何気なく覗き込んだ宗像の二つの目が、突然吸い寄せられるように、ある一枚の絵を捕らえた。それはまるで運命的な出会いを象徴するような、若く美しい女性の横顔を描いた肖像画だった。
思わず小さく声をあげそうになる気持ちを抑え、生唾を呑み込みながら凝視すると、それは木炭とパステルに、不透明水彩を重ねて仕上げられた小さな絵だった。
額装の状態から判断すれば、それは油絵のような絵ではなく、リトグラフらしきものと推測された。
しかし、かなり技巧的なテクニックを駆使して描かれた写実的な絵である。
本来、宗像は写真家だが、絵画や彫刻などの表現芸術にも造詣が深く、いつも暇さえあれば多くの画廊に出入りしていた。建築家の磯原も、宗像の才能に一目置いていたのは、必ずしも写真だけというわけではなく、もって生まれた広くて深い美的感覚に裏付けられた、新鮮な批評眼に注目していたのだった。
直感だがこれは凄い。今までお目にかかったことのないような絵だと、宗像は胸の高まりを抑えることができなかった。しかも仄かに退廃的な匂いが立ち込めている。加えてミステリアスな印象も漂う。
この絵を描いた画家はいったいどんな人物なのだろうか? しかし同時に、そこに描かれた官能的な雰囲気の中で、幾分挑戦的な美しさを漂わせている女に、強く惹かれたことも否定しがたい事実だった。
天気も良いし、ひとまずカフェで喉を潤してから画廊に入ろう。時間はまだたっぷりある。
緑色に塗られた鋳鉄製の椅子に腰をおろし、道路の反対側を見ると、少し奥まってはいるが、そこにもカフェとレストランが店を出していた。右側には商店街らしい佇まいの風景が連続して見えていた。いかにもこれがロンドンの良き住宅街といえそうな光景が広がっていた。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商