【前回の記事を読む】「もう彼が亡くなったと思うと…」亡き友の最後の葬式に出席することさえ、私はできなかった。

幼き頃の思い出

驪城さんを初めて見出したのは、かれこれ三十年のむかしである。東京の高輪(たかなわ)へわが派の学院が移転せられたときである。その高輪学院において驪城さんと相識(あいし)るに至ったのである。

驪城さんは、すぐれた文才を以って一校にもてはやされていられた。すでに亡くなられた菅三誘君と、現に東京にいられる松原致遠君と三人で十八文社というものをつくり「三日月」という筆耕雑誌を出していられた。

私たちは後にその幕下に馳せ参じて教えて貰ったものである。その頃のことはすべて美しい夢のような気分がする。高輪の泉岳寺あたりの風物、品川湾の情趣などにわれらは親しみをもったのである。

ベルを吊した榎のある高台を振鈴台(しんれいだい)となづけ、振鈴台の月などと興じて高輪八景を数えあげたのも、われらの仲間であったかとおもう。

かくて、二年ばかりすると、思い切って大きな学校騒動が惹起されてきた。われらはそのうちの首謀者であったので、みんな退学の処分をうけて高輪を去ったのであった。このつまずきは、われらの仲間を分散させてしまった。そしてみんなは思い思いのみちを辿(たど)った。その折は驪城さんは東京にのこった筈である。

私は梅原龍北先生からすすめられて遂に福井の仏教中学に落ちのびたのである。なんでも、そのころ驪城さんなどといっしょに本郷の櫻井義肇(ぎちょう)先生のお宅で御自慢の麦飯の御馳走をいただいて懇諭をうけたり、驪城さんと共に大森の杉村縦横先生の寓をおとずれて訓戒されたり、いろいろのことも、今はなつかしい思い出である。

のちに、驪城さんは福井の仏教中学に教師として赴任されたとき、私は京都の仏教大学にいた。帰省の途次(とじ)、私は福井の母校に旧友を見出してなつかしく感じたことであった。北国の雪の宵、二人が足羽川のほとりでしみじみと語り合うたことなども、思い浮かべられてくる。

最後に驪城さんは大阪に、私は京都にとどまった。折に、逢うときはなつかしい気分で幼い頃のこころもちそのままで語り合うた。そして石丸さんや大坪さんなどを知ったのも驪城さんにつながる縁であったかとおもう。

ああ、人生はながいようでみじかい。ただ、追憶は綿々としてつきないのである。

梅原眞隆