【前回の記事を読む】「ママ、具合が悪くなっちゃって……」気丈だった母の弱音。それから19年間続いた介護の日々とは

第1章 介護を通じて育む家族の愛

前触れもなく始まった母の看病

母は元々とても気が強かったので、自分で動けるうちは私に決して頼ろうとしませんでした。できる限り我慢をしていたのです。

しかし、どうしても自分だけでは立ち行かなくなり、私にSOSを出してきたのでしょう。

病院では当初、長年の勤めの疲れが出たという曖昧(あいまい)な診断で、病名すらはっきりとせず、「目の疲れによって、体の倦怠(けんたい)感、お腹の痛み、足腰の痛み、微熱などが続いているのだろう」と医師は言っていたようです。

私も、電話を受けた時点では、それほど大事になるとは感じていませんでした。ただ体の具合が悪くて、家事をするのが大変だと言うので、数カ月だけ家事を手伝ってやろうというぐらいの軽い気持ちで、実家に戻りました。

しかし、私が実家に戻ってからも、母の状態は悪化の一途を辿(たど)るばかりでした。下肢が痛くて母は寝ていることが多くなりました。そして、ほとんどひとりで歩けなくなってから、ことの重大性に気付いたのです。これは看病ではなくて介護になるかもしれない。そんな予感が、うっすらと頭の隅に芽生え始めたのです。

母の容態が悪化した主な原因は、その他の内科や皮膚科で処方された薬に含まれていたステロイドに、リンデロンと飲み合わせの悪い成分が入っており、それらを過剰に摂取し過ぎたことによるものでした。

その頃は今のようにお薬手帳は普及していなかった時代です。導入されていたものの、重複して出されている薬の確認や飲み合わせまで考えてくれる病院はありませんでした。

医師に任せっきりにしていた自分にも悔いが残ります。母の通院している病院のこと、服用している薬、目薬、軟膏(なんこう)に至るまで把握するようになったのは、事態が深刻になってからのこと。それまでは、母が何軒の病院に通院していたのか、薬を1日に何種類、何錠服用していたのか、気にも留めていませんでした。

たしかにそこに非があるにしても、かかっていた医師がもう少し患者やその家族の意見を聞いてくれていたら、という思いは未だにぬぐい去ることはできません。