【前回の記事を読む】マルクスを理解していた訳でも、毛沢東に心酔していたせいでも無かった…ただ、愛していた彼女の自死が彼の人生を狂わせた。
悔悟の涙
だからそれまで、僕の曖昧で中途半端な政治的態度に、むしろ冷笑的でさえあった彼が、いや実際は、心の内面でその様な複雑な葛藤も抱えていた訳だけれど、それでもやはり、差別に対する政治的動機だけが主因となって、より過激な政治的世界に入っていったものとばかり理解していた。
だが事実は、あの女性に対する純粋な恋愛感情と、その死に対する微妙な思いが複雑に絡みあって、それ以上に強烈な心的動機となっていた訳である。
だから全共闘運動の、ある意味非政治的で極めて情緒的な、それもいささか自己矛盾を含んだ主張を真に受け、青臭い思い込みだけで大学に進んだ自分とは違って、彼の場合、その女性に対する複雑な感情が、それまで味わってきた屈辱的な体験と強く絡みあい、世の中に対する行き場のない怒りを募らせていった事はほぼ間違いないことであった。
しかし、当時彼を襲っていた現実は、本当はもっと複雑でさらに残酷なものであった。彼女の死後暫くして、新たに耳にした話がある。彼はそんな噂がある事を、僕の前ではおくびにも出さなかった。
その話の大部分が本当であったとしても、必ずしも全て真実であった訳では無いだろうが、ともかく、彼女は多くの不特定の男性に対して、つまり性に対して、かなりな奔放さも持ち合わせていたというのが、僕の聞いた話の内容であった。薄幸で清楚そのもののひととばかり思われていた、一人の女性の不幸な死に纏わる良からぬ噂であった。
つまり彼女の不幸な死は、差別に関わる事だけが原因だった訳でなく、むしろ逆に、彼女の性癖と多情ぶりにも大きな原因があったのだという噂が、彼女の死後暫くして囁かれ、彼にさらに耐えきれぬほどの複雑な衝撃を与え、純粋な彼を一層ひどく落ち込ませ苦しませていたという事情を、当時の僕は知る由もなかった。けれど、それはおそらく疑いようのない事実であった訳だ。
何故ならば、その後の僕には多少不可解であった、ある時期を境にしてより過激になっていった、あの頃の彼の一連の行動の理由が、少しは腑に落ちる様な気がするからである
その気持ちを払拭するためだけではなかったはずだが、本気で革命を目指そうとする、その当時の彼の真剣な姿に、そんな事情も知らない僕は堪らないほどの違和感を覚え、当惑する様になっていた。そしていつしか、Nと僕との間には、何とも言えない、わだかまりの様なものさえ生じる様になっていた。