中世でのカリスマ像

古代におけるカリスマは「神の僕」として位置づけられていました。私はそのカリスマの代表者としてイザヤとイエス・キリストを例に挙げて話しました。

だが、神の僕は一人に限ります。何人も神の僕がいたのでは、神の権威が損なわれます。ところが人々のため自死した筈のイエス・キリストが、人間の姿で再度この世に現れ、復活しています。

ヨーロッパでは、人間の姿で現れて復活したキリストへの認知で揉めに揉めましたが、キリスト教はその解決策として、三位一体説を打ち立てて、イエス・キリストを神と認知しています。

キリスト教が用いた三位一体説での論拠は、先ず形而上学で神は見えないが「聖霊」を発する存在とし、見えない神を「神は言」と演繹法で表現し、人間の姿で現れたイエス・キリストが各地で奇跡を起こし、聖霊を福音書等で人々に伝えていた事を踏まえ「言は神」と表現し、イエス・キリストを神の子息と位置づけ、キリストを神と認知しています。

キリスト教は難しい三位一体説を仮説化して、演繹法で説明して教義の核として人々に布教していますが、仮説化して説明する三位一体説は、ヨーロッパ人にも当初は分かり難い説明に映ったようです。

ヨーロッパではそれを反映してイエス・キリストの認知で揉めに揉め、戦争に迄発展しています。だが、ヨーロッパ人も最後は演繹思考でイエス・キリストを神の子息として認知し、三位一体説は受け入れられるようになりました。

三位一体説を演繹思考で受け入れたヨーロッパは、キリスト教が定着する社会になりましたが、中世になるとやはり暗黙知の神を人々に仲介するカリスマへの解釈で混乱しています。

一般に人が他人を評する場合、相手の考え方や地位、経歴等を総合的に捉えて説明する処があります。だが、相手の存在が大きい場合、二面論での説明では間尺が合わず、分かり難い説明になります。暗黙知の神を仲介するカリスマも二極論の人物評では、逆に分かり難い存在になります。

この解決策として中世のヨーロッパは、カリスマの解釈を「マナ」と「タブ」の二つを絡めてカリスマを説明していました。マナとは超能力者を言い、タブは一般の人々がマナに抱く心情です。人々はマナの持つ才に恐れを抱くものですが、一方で、マナの才に帰依し、頼る気が起こるものです。

中世のヨーロッパ社会は、カリスマの才をマナとタブの視点で捉え、カリスマを「呪術師的な特異な才の持ち主」と位置づけていました。

 

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