サイコ1――念力殺人

世の中は何でこんなに面白くないんだろう――。

とぼとぼとマンションに戻る道中、雲一つない夕暮れの淡い空を眺めながら那花麻利衣(なばなまりえ)は思った。

本来なら今頃は松本静香の家で家庭教師のバイトが始まっている頃だった。だがほんの1時間程前に母親から電話がかかってきて、今後は別の教師を雇うことにしたと連絡があったのだ。

理由など聞かずとも分かっていた。彼女はつい先日、2度目の医師国家試験に失敗したのだ。

静香の母親も1度目の時は「国試って難しいんでしょ。うちの夫も実は1回落ちたらしいのよ。大丈夫。麻利衣ちゃんなら頑張ればきっと来年は合格するわ」と励ましてくれたのだが、2度目は今年度医学部受験を控えている静香の家庭教師にはさすがに相応しくないと決断したようで、「本当にごめんね」と何度も謝りながら、しかしきっぱりとクビを言い渡してきた。

電車で静香の家近くまで既に来ていたのだが、急遽今後の財政を憂慮せねばならなくなり、自宅まで歩いて帰ることにしたのである。

麻利衣の実家は裕福ではない。精神科医だった父は早くに亡くなり、母が一人で仕事と子育てに奮闘し、医学部にまで入れてくれた。授業料免除と奨学金で学生時代は何とかやってきたが、国試浪人となってからは家庭教師のバイトだけが頼みの綱だった。これ以上母に苦労をかけさせるわけにはいかない。

もうそろそろ諦め時なのか――。国試で2浪するとその後の合格率は45%程度と極端に低下する。予備校に通うお金もなく、自宅で誰とも会話せず黙々と机に向かい続ける一年間にまた耐えなければいけないのかと思うとぞっとする。

友人からの連絡も久しく途絶え、社会から隔絶され孤立した惨めなあの部屋での試練。それよりは友人たちに顔向けできなくなったとしてもいっそどこかに就職してしまった方が楽になれるのではないだろうか。

そんなことを思い悩みながら呆然と橋の上を歩いていると向こうから歩いてきたスーツを着たおじさんと思い切り肩がぶつかり、彼女は無様に歩道の上に尻餅をついた。

「気をつけろ!」

男はそう怒鳴りながら、彼女を助け起こす素振りも全くなく歩き去った。彼女は慌てて地面に落ちた丸縁眼鏡を手探りで捜した。かなりの近視なのである。