恵子は生後五十日にして急性肺炎を患った。往診に来た医師が恵子の足があまりに細いので注射をためらっていると、「先生私がします」と言うなり医師から注射器を取り上げて娘に打ち込んだ。

その姿を見た医師は母に感動して涙を流したという。本来の母はそんな人なのだ。そんな貧困の中でも何とか育ててくれたこと、さらにそんなていたらくの父に最後まで添い遂げてくれた事には感謝だ。

激動の中で

恵子の誕生を機に珠輝の周辺でもいろいろなことが起こった。この年は本来珠輝の入学すべき年だ。自宅によく遊びに来ていた子供たちもみな小学生になった。だが珠輝には入学のことなど口にできることではなかった。

いつだったか町内会から新入生の子供たちに鉛筆が二本と消しゴムが入った筆箱が入学祝いとして配られた。珠輝は嬉しかった。

「お母さん私はいつ学校に行けると。」

何気なく尋ねたつもりだったが「うちに金のなる木でもあると思うとね。うちはね珠輝…」それから母の小言がしばらく続いた。確かに恵子のミルク代に追われていることは分かっていたのだがまさか入学の事でこれほど叱られようとは夢にも思わなかった。

なぜならいつも「お父さんはとっても頭がよかったのに家が貧乏で学校に行かせてもらえなかったとよ。それでもいつも学校に行きたいと思っていたのだから偉いやろう。」

それが母の口癖だったから行く行かないは別として「あんたは目が見えないのに学校に行きたいとは偉いねえ。」

母に褒められるだろうとばかり思っていたからだ。