ところで、このような自然主義的・発生的アプローチは一種の心理主義との批判を受けるかもしれない。この批判には当面甘んじなければならないかもしれない。全てが心理的に解明できるわけではないからだ。

例えば数学に対する心理学的観点からの批判というのは確かに見当外れである。なぜなら数学においてはあくまで論理的展開がその生命となるからで、そこに何らかの人間心理が反論として入り込む理由はないからだ。簡単に言って分野が違うのだ。

しかし、哲学においては人間心理を無視できない。なぜならそもそも哲学は何を目標にしているかは必ずしも明確ではないからである。言い換えると問題設定そのものから人間心理が影響を及ぼしている可能性があるからである。

例えば、存在、精神、理性、悟性、神、魂、実体、意思、自由、直観、生命などの言葉によって表現されるものへの理解は論理的アプローチだけでは達成できないであろう。

なぜならこれらの言葉には発生的な起源があるからである。そのことを無視すると、極端なケース、全く中身のないものに対して執拗に追求するということになりかねない。敵だと思って風車めがけて突進するような愚行を犯しかねない。

人間はあくまで自然の一部であるから、人間を知るには、物理学、生物学(考古学、人類学なども含めて)もある程度は必要であるし、それ以上に心理学も必要になる。そしてわれわれが手にすることとなる実りの豊かさによってこの哲学に向けられた心理主義との批判はその矛先が鈍くなるだろう。

 

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