周りを変えた嘉子のパワー

次の朝の嘉子はまさに別人となっていた。

重正を勤めに送り出し後片付けを終えると、珠輝を背中に背負いバケツを提げて、共同水汲み場に向かった。当時の炭鉱社宅には各家庭に水道が引かれていなかったからこのような場所が町内ごとに設けられていた。

そこには女たちがたむろし、順番を待ちながら噂話に花を咲かせるのだった。おそらく嘉子の噂でもしていたのだろう、彼女の姿を見た途端、皆おしゃべりを止めた。

「おはようございます。」

勢いよく挨拶した嘉子に女たちは驚いた。頭だけ下げた者は何人かいたものの、蜘蛛の子を散らすように去っていった。おかげで順番待ちせず楽に二つのバケツに水が汲めた。買いものに出かけても以前のように人々の視線を避けるようなことはしなかった。

古閑幸江が背中で眠っている珠輝を無遠慮にのぞき込み「赤ちゃんどお。」と言った。

「だいぶ大きくなったやろう。目は見えなくても元気に育ってくれるから何よりよ。」

嘉子が堂々ときっぱりそういうと、古閑はそそくさと立ち去った。

嘉子は珠輝を連れて風呂にも堂々と入った。そうなると嘉子を以前のように中傷する者はいなくなり、誰それが嘉子の陰口をたたいているとか、誰それが珠輝のことを馬鹿にしていたとか取るに足らないことをご注進する女まで現れた。古閑でさえ無遠慮に珠輝を見 ることもなくなった。

鬼?の実馬でさえ珠輝を叱ることはなかったし、嘉子にヘレンケラーの自伝を翻訳しながら読み聞かせるのだった。さらに、

「嘉子、この人は目だけではなく耳まで不自由なのだ。だがサリバン先生の教育のおかげで世界中に名を成したのだ。珠輝には決して猫に芸を教えるような教育はしてはならんぞ。」

これが実馬の口癖となった。心に平安を取り戻した二人は珠輝を眼科医に診断させることにした。その町でも有名な眼科医に見せると珠輝を見るや大学病院の受診を勧めた。すると珠輝を担当した医師はなんと重正の先輩の中井稔だった。

稔は重正が尋常小学校の三年生から四年間担任だった中井教師の息子だった。彼は父から重正の事はよく聞いていたと見え、一年生で重正が一銭洋食を始めると何人かの同級生を連れて来てくれたり、それとなく目を掛けてくれたのだった。間もなく彼は中学に入り、京大に入り医師の道に進んだ。

中井教師は重正が卒業と同時に他校へ校長として転勤したため連絡が途絶えた。この教師は幾度となく重正に弁当を差し入れてくれたのだった。こっそりとだ。

今度は娘の珠輝が稔の世話になろうとしているのだ。

次回更新は12月8日(月)、20時の予定です。

 

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