「ねえ、あなた。本当に借りるの?この物件」
「ええ、まあ」
「貸主側の人間が言うことじゃないんだけど、個人的には、あの現場見たら、あたしだったらちょっと借りないかな」
それにね、と続けて紡ぎ出そうとする事務員をさえぎって、私はあの、と言った。今住んでいる物件はすでに解約の連絡をしていて、もう、後には引けなかった。ぞわぞわとする肌の感覚を、家賃が半額という事実と、息子の顔を思い出すことで、なんとか押しとどめた。
「物件を、見たいんですけど」
借りることは決めているけれど、自分の肌感覚として受け入れられるかどうか、物件をこの目で見てみたいと思った。
「ああ、そりゃ、そうよね」
何かついているとでも言ったふうに私の顔を、事務員はじっと見つめた。それから、腕時計に目を走らせると、
「ついていって説明したいんだけど、来客のアポがあるの。あなた、一人で見にいってもらっていいかしら」
私の返事を待たずに、窓の外を指して、ほらあそこ、あの建物の後ろに建っている棟の四階、と言って、壁にかかっているたくさんの中から物件の鍵を素早く取って、手渡した。
その鍵には、ほかのものとは違って、赤くて丸いシールが貼られていた。何かまだ言いたげな事務員が口を開きそうになったところで、私は、ありがとうございました、と素早く言って立ちあがった。
もらった鍵が、掌でがちゃんと、重たい音をたてた。
次回更新は12月7日(日)、11時の予定です。
【イチオシ記事】電車でぐったりしていた私に声をかけてきたのは、不倫相手の妻だった
【注目記事】父は窒息死、母は凍死、長女は溺死── 家族は4人、しかし死体は三つ、靴も3足。静岡県藤市十燈荘で起きた異様すぎる一家殺害事件