和枝は国産メーカーが運営する音楽教室の講師を務める傍ら、家でのレッスンや出稽古もしていたので、遥のレッスンはたいてい夜、お風呂の前にということになっていた。「パパとママだけに聴かせるのもいいけど、ちょっとみんなの前で弾いてみようか」。和枝がそう言って、今年の夏「全国わかばコンクール」に遥を初めてエントリーさせた。
神奈川県に隣接する東京の自治体が主催するコンクールで、幼年の部からレベルが高いことで知られていた。遥にはコンクールの意味すら教えていなかったので、お出かけ感覚で付いてきて、おそらくほとんど緊張感もなく舞台に上がっていた。その甲斐あってか一次予選は楽しく弾いてクリアー。
二次予選は、課題曲の中からヘンデルの「ガボット」に挑んだ。遥はその頃バレエも習い始めていたので、和枝は、踊るセンスがないと弾くことが難しいこの曲を敢えて選んでいた。曲はアウフタクトで始まる。自然な流れに聞こえるようにするのは思いのほか大変だった。
七歳の子に理論を教えるわけにもいかないので、和枝は暇を見つけては遥の手を取り、ダンスをしながら、ピアノでどう歌えばいいのかを教えた。そして二次予選もくぐり抜け、気が付けば本選出場の五人に残っていた。
本選は遥がトップバッターだった。紹介アナウンスが聞こえ、舞台袖からそっと会場を覗いた遥は一瞬たじろいだ。「この前と違うね」。客席はびっしり埋まり空気が断然重たかった。
「何なのこれ、ママ」と、後ろから自分の両肩に手を置いていた和枝を振り仰いだ。
「何だろうねぇ。でもこれ終わったらきっといいことが待ってるから」
「えっ! 何、何」
「内緒よ~」と言いながら、遥の髪からずり落ちそうになったヘアピンを差し直している。やっと日常じゃない何かが起きていると察した遥だったが、意を決して舞台中央に向かって歩き出した。その小さな背中を見つめながら、和枝はエールを送っていた。
「やっぱり水色のドレスにして良かったね」
次回更新は11月24日(月)、21時の予定です。
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