秀衡は、悪びれずにさっぱりとそう云う九郎の面を暫し好もしそうに見詰めていたが、やがて脇に置いてあった草紙を手に取ると、開いてみた。
「九郎殿は、阿弖流為(あてるい)という男を知っておるか。三百年も前にここが蝦夷(えみし)の国だった頃の総大将よ」
秀衡は黙って聞く九郎を見てから、続けて云った。
「阿弖流為はな、朝廷から遣わされた紀古佐美の軍勢と、自国を賭けて戦った。紀古佐美軍は兵約一万、阿弖流為の方は約一千じゃ。結果はの、阿弖流為の大勝じゃ。何故だか分かるか」
「戦立(いくさだ)ちにございますか」
「そうだ、ここを使って勝ったのじゃ」
と、秀衡は自らの頭の白い頭巾を指した。
「戦は、戦力だけが物いうのでない。阿弖流為は北上川の地の利をば用いて、一万の軍に対して一千の軍で敵を包囲し、敗走させた。包囲さえ全うせば、力の差は余り関りの無くなるものじゃ。若も、大川敷きで幾度も陣教練に出張ってござるべし、あの辺りよ」
そして秀衡は草紙を前に置いて云った。
「されど、戦立ち、それのみではなかろうべし。阿弖流為に、己の国ば侵す者から民を守らねばならねぇという強い存念があったればこその知略じゃべい。一方、侵す方の者には、阿弖流為ほどの意気地は無かったのよ」
秀衡は立ち上がって御座から下りると、九郎の目の前に座り、草紙をその前へ置いた。その北の王者の衣から、焚きしめた香のかおりがした。
「戦に欠くべからざるもの、それは、どれだけ不利であっても神賭けて勝つという強い念じゃ。頭と、それとここじゃ。決して武勇だけではねぇ」
と云って秀衡は、自らの胸元をポンと叩いた。
九郎は黙ったまま秀衡の面を眩しげに眺め、そして草紙を手に取った。
「殿、これにそれが書いてござりまするか」
秀衡は微笑んだ。
「校倉(あぜくら)に、宋渡りの兵書もある。いつの日か、役に立つ事があるやもしれん。繰り返し、繰り返し読んで、我が身の血肉とされるが良かろうべし」
秀衡のその慈父の如き訓育は、薬餌のようにひたひたと身寄りの無い九郎の胸の奥にまで広がり、温かい慈雨を受けて頭を上げる乾いた稲穂の如く、顔を上げてはたと秀衡を見詰めた。そして我が心を表すべき言葉も見出せぬままに深く低頭した。
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