「よっしゃー」
次の瞬間、城戸の手のひらには血を吸って丸々と太った蚊の死骸がへばりついていた。できることなら殺生はしたくないが、蚊だけは見逃せない。
これで見失ってしまえば、朝まで悩まされることになるのだ。耳元で「ぶーん」とうなられるだけで、眠れなくなってしまう。夜中に蚊の羽音で起こされ、叩きつぶすまで追いかけ回さなければならない場面を想像しただけで腹が立つ。
城戸はティッシュで蚊の死骸を拭き取りながら、ふと考えた。なぜ蚊は人の血を吸うのだろう。人類は誕生以来、ずっと蚊に悩まされてきたのだろうか。それにしても、この時期に蚊が出るのは早過ぎる。
まだ春だと思って、網戸を開け放ったのが失敗だったが、やはり地球温暖化が進んで生態系がおかしくなっているのではないか ── 。
蚊といえば、デング熱騒ぎもあった。蚊がデング熱を媒介するなんて、日本人のほとんどが知らなかったに違いないが、もともと熱帯のウイルスなんだから当たり前だ。
それが代々木公園で感染者が見つかったのを皮切りに、瞬く間に全国で百人以上に感染が広がったわけだから、驚きも大きかった。それまではヤブ蚊しか知らなかったが、あの騒ぎで「ヒトスジシマカ」という名前も有名になったし。
城戸がデング熱騒ぎをよく覚えているのは、国立感染症研究所に勤めている香織がウイルスの分析に大忙しで、一週間ほど瞳を預かったからだ。
「あの時は、デング熱のおかげで、瞳とゆっくり過ごせたなあ。そんなこと言ってるとバチが当たるかもしれんけどな」
もっとも、その後の新型コロナ禍で香織は多忙を極め、瞳とも会えない時期が続いた。それを考えると、娘と旅に出られるなんて奇跡かもしれない。とりとめのない思考を続けているうちに、城戸は眠りに落ちていた。
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