康介はいつも就業時刻より一時間以上も早く出勤している。通勤に使っている電車が人身事故に巻き込まれたり、何らかのトラブルで遅延が生じても間に合うように。そのおかげで今まで遅刻したことは無い。

お隣さんは体調を崩した妻の代わりに子どもを幼稚園に送ってから出勤することがたまにあるため、その都度遅刻している。康介はフレックスタイムを採用している会社かと思ったがそうではないと涼子が言っていた。であれば出世とも無縁なはずだ。

妻も妻だ。若いうちに無理をしないでいつ無理をするというのだ。これから体は衰えていく一方なのに、旦那の足を引っ張って未来の収入を失ってどうする。

目先の利に囚われるといつか大損する。隣の旦那が低所得なのも半分は妻のせいじゃないのか。金が無くて苦労するのは遠くない未来の自分たちだろうに。私事、私情に流されず、長期的に物事を判断する勤勉な社会人。それが家族を養う勤め人のあるべき姿であり、目指すものだと康介は信じて生きてきた。

だが、はたしてそれは本心だろうかと考えることが最近は増えた。不安定になりがちな妻や気難しい年ごろになった息子と顔を合わせたくなくて、無駄に家を早く出て不必要な残業をしているだけじゃないのか、と問われたら否定する材料がない。

(やめよう……。考え事をしているとタバコが吸いたくなってくる)

最近は一日に吸う数がめっきり減ったが若いころは毎日二箱も買っていた。今、当時の自分にアドバイスができるのなら真っ先にタバコは止めろと言うだろう。

「行ってくる」

靴ベラを使って足を長年親しんだ革靴に滑らせる。その後、涼子が康介にカバンを手渡す。何年も繰り返してきた朝のルーティンワークは、順当にいけばまだ二〇年ほど繰り返さなくてならない。

そのはずだった――

「……行ってらっしゃい」

いつもならその言葉を受けて扉を開ける。だが今日の康介はそうしなかった。普段と違う夫の様子を見て妻は不安げな表情を浮かべた。

次回更新は12月6日(土)、11時の予定です。

 

👉『差出人は知れず』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】夫の不倫現場に遭遇し、別れを切り出した夜…。「やめて!」 夫は人が変わったように無理やりキスをし、パジャマを脱がしてきて…

【注目記事】認知症の母を助けようと下敷きに…お腹の子の上に膝をつき、全体重をかけられた。激痛、足の間からは液体が流れ、赤ちゃんは…