ある日、彼女が別の友人とランチに行った話をしたことがあった。僕はそのとき、なぜだか胸の奥がざらりとした感覚に襲われた。別に彼女は僕の恋人ではなかったし、彼女の交友関係に口を挟む権利などなかったはずだ。けれど、僕は言ってしまった。
「その子、あまりいい評判を聞かないよ。深入りしないほうがいいんじゃないかな」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、そしてすぐに笑顔を見せた。
「そうなんですか。気をつけますね」
その笑顔を見て僕は安堵した。だがその安堵こそが、彼女の自由を奪っていく最初の刃だったのだ。
僕たちはやがて付き合い始めた。特別な出来事があったわけではない。ただ、ある晩に二人で校舎の裏庭を歩いていて、彼女が「こうしてると落ち着きます」と呟いた。その声が、僕の胸に小さな焚き火を灯した。静かな夜風がその炎をかすかに煽り、火は自然に広がっていった。気づけば僕たちは手をつなぎ、それが恋人同士であることの宣言のようになった。
恋人になってからも、彼女はいつも笑顔だった。どこに行っても、誰に会っても、彼女は柔らかな光をまとったかのように微笑んでいた。その笑顔に、僕は酔いしれた。彼女の笑顔を守らなくてはならないと感じた。しかし、守るという名のもとで、僕は彼女を囲い込んでいったのだ。守ることと縛ることの境界線を、僕は見誤っていた。
夏のある日、彼女が新しいアルバイトを始めたいと言ったことがあった。カフェで働いてみたい、と。僕は反射的に首を横に振った。
「君には合わないよ。ああいう場所は時間も不規則だし、変な客も多い。もっと落ち着いた仕事の方がいいと思う」
彼女は少し寂しそうな顔をしたが、やがて微笑みながら言った。
「そうですね、考え直します」
その微笑みは、今にして思えば、心の奥を一枚分だけ閉ざす合図だったのかもしれない。扉が一つ、音もなく閉じられた。けれど僕は、その閉ざされた扉の存在すら気づかなかった。
次回更新は11月4日(火)、11時の予定です。
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