【前回の記事を読む】息子が眠る治療室は、窓全開で網戸に埃。天井から雨漏りのように何かの液が滴り落ちてきて…

第一章 事故

帰り際、リカバリー室から廊下に出ると、功はまさ子を手招きし、小声で言った。

「おい、こんな汚い病室に透を入れておくのか? 意識がなくても透がかわいそうだよ。なあ、どうしてもこの病院じゃなきゃダメなのか?」

「兄さんもそう思う?」

「思うさ。人間扱いしてくれてないよ」

「私も不安なのよ。でも……じゃあどこに行けばいいのか」

「幹雄さんは何て言ってるんだ? 今日は?」

「……あの人は、警察でいろいろ当時の様子を聞いたり、それから、保険のこととか」

「そうだ。入院費も手術費も、加害者に支払ってもらわないと。もちろん慰謝料もな」

「それが……保険に入ってなかったらしくて」

「ええっ? じゃ、自賠責だけか」

「とにかく、あの人も私も、次から次へといろんなことが降って湧いて、いっぱいいっぱいなの。きちんと考えたり決めたりする余裕がなくて。もう少し容態が安定したら、考えてみる」

「……そうだな。まさ子も看病で大変だろう。寝てるか? 食べてるか? 看病するにしても、ここじゃあんまり……。また来るから。様子を知らせるんだよ。何かあったら連絡しなさい。一人でキナキナ考えちゃダメだ。幹雄さんもいるんだし」

「うん。ありがとう、兄さん」

まさ子は自分の感覚がおかしくなかったと確信し、功の言葉に勇気づけられた。

時を同じくして、院内でMRSA感染が広がった。MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)感染症とは、特効薬としての抗生物質に耐性のある菌が、病人など抵抗力の弱い人に限って感染するものだ。医療施設で蔓延することが多く、場合によっては敗血症など重篤になる危険性もある。

(手術したばかりの透が感染したら、ひとたまりもない)

危機感を持ったまさ子は、思い切ってナースに切り出した。

「MRSAが心配です。うちの子、転院させたいんですが」

すると、すぐさまナース長の木村がやってきた。

「ご心配はわかります。でも、今は再手術が控えているので」

「再手術? どういうことですか?」

「聞いてませんでしたか?」

「何も」

「主治医に来てもらいますから説明を聞いてください」

「待って、待ってください、どういうこと?」

突然のことに、まさ子はどうしていいかわからない。ふと、功の言葉を思い出した。

(一人でキナキナ考えちゃダメだ。幹雄さんもいるんだし)

まさ子はようやく短い言葉を口にした。

「主人に連絡します」

主治医との面談は、翌日の午後と決まった。