ここで一つの判断が伴った。教育実習は四月。大方の企業の面接が四月に集中していた。従って、私は父に内緒で教職課程を途中で辞退したのである。

某国立大学の教授だった祖父の血筋柄、私を教師にしたいという思いが父にあったのだろう。

そして、高度経済成長期を支えて、毎晩終電の時間外労働や休日といった概念のない過酷な環境で、父のようにサラリーマンになって、納得のいかないことにYes Manを演じることなく、“先生”として生徒に慕われる立場で仕事をしてほしい、そんな父なりの考えがあったのだと思う。

父は私に、「おまえは人の言う通りに従うのが好きな性格ではない。サラリーマンになったら苦労するぞ。先生の方が性に合うはずだ」と言っていた。でも、私はサラリーマンの道を選んでしまった。

「受験勉強もしたことがなく、帰国子女というアドバンテージで同志社国際高校~同志社大学という学歴を手に入れ」……私の今までの学生生活をこのように表現した。

改めて要約すると十二歳から十七歳までの五年間、窯業の仕事をしていた父が、アメリカにジョイントベンチャーを構えるということで赴任が決まり、家族も一緒に渡米。この経験が今の私の個性、性格、価値観の基礎になっていることは間違いない。

そんな貴重な経験があったからこそ、ロクに漢字も書けず、日本語もまともに喋ることができなかった私が、帰国子女枠で関関同立の大学に入れたことは言うまでもない。

こんな偶然が重なって、ある意味楽勝な人生を歩む人間も世の中にはいる。でも、受験戦争というものを経験したことがなく、基本中の基本的な日本の中学義務教育課程を丸ごとスキップしたことは、実は私が生きてきた人生の中で最大の劣等感として、今でも私の中に刻まれているのが本音。

結果的に楽をしてきてしまった学生時代、他の一般学生のような高校受験、大学受験という苦労を一度も経験してこなかったことは、特に社会人になってからいろいろな場面で不利に働いた。

ゆえに、表面的には楽勝な私の学歴で、英語もペラペラといった華やかな印象の学生時代も、私には私なりの苦労があり、そしてそれなりに今の私の考え方に深みを与えているように思っている。

このような学生人生を経て、私は一九九四年四月に松下電器産業株式会社(現パナソニック)で働くことになった。入社から今までの私の会社人生については最終章の第八章で詳しく語ることにする。

それでは、ここから学生諸君に向けて、就職活動という本題に入っていきたい。

 

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