【前回記事を読む】「24卒就活はまだ終わってない! もう25卒就活始まったとかやめて」学生たちの悲痛な叫びツイートを日々目の当たりにして…

第一章    私の学生時代

読者の学生諸君と私との間には四半世紀以上の年齢差があるため、皆さんの今の立場に歩み寄れるよう、就職活動という本題に入る前に、私の学生時代について語っておきたい。

私も一九九三年に就職活動をしていた頃は、皆さん同様に、自身の過去や自身の経験を振り返り、いわゆる自己分析を行っていた。

小学校六年生。十二歳の時に〇崎窯業(ようぎょう)という耐火煉瓦を扱う会社に勤めていた父の突然の転勤に伴い、私はアメリカに転校することになった。当時知っていた英語といえばHello! Goodbye! Thank you! 程度。

六畳の居間と四・五畳が二間。実質五十平米程度しかない間取りの南阿佐ヶ谷団地で、決して裕福な暮らしではなかった四人家族の庶民が突然アメリカ。正直なところ、「アメリカ」イコール「外国」程度の知識しかなかった。きっとアメリカ人って大きいんだろうな。家も大きいんだろうな。自分の部屋もらえるのかな。かわいい金髪の女の子がいっぱいなんだろうな、それは楽しみだ。

所詮は小学六年生が考えることなどこの程度。不安もなければ将来のことなど微塵も考えることなく、アメリカ北部、オハイオ州クリーブランド郊外のロッキーリバー市に移住することとなった。

基本的に家は大きい。でも、私が住むことになった家は一般的には富裕層が住むといわれるコンドミニアム式の閑静な住宅街だった。自分で芝刈りが不要な近隣住戸と共有の巨大な共用庭。二十畳ほどの地下室。二台分の大きな駐車場はリモコンで開閉式。三十畳はあろうかのリビング。座ったことのない、身体が沈むようなどでかい五人分のソファー。

薪で炎を起こす本物の暖炉が設備されたファミリールーム。南阿佐ヶ谷では、姉の椅子と私の椅子の背もたれが当たってしまうほどのスペースしかなかった、狭くて窮屈だった四・五畳の勉強部屋からは想像もできない私だけの寝室も十畳はある立派な部屋だった。

アメリカ転校で、文字通り私の生活は一変した。

当時のクリーブランド・ダウンタウンはアメリカでも有数の犯罪多発危険地帯。赤信号で車を止めると、周囲からホームレスや見るからに危険そうな人が近づいてくることもあり、赤信号でも車を突っ走らせる、それほど神経を尖らせていないといけないような地域だった。